1959年の最近のブログ記事

【初のユニバーサル・ホラーの完全リメイク】

『フランケンシュタインの逆襲』(1957)、『吸血鬼ドラキュラ』(1958)、『ミイラの幽霊』(1959)の3本は「ユニバーサル・ホラーの再映画化」とされる向きがあるが、『フランケンシュタインの逆襲』はハマーがワーナー・ブラザーズ配給でユニバーサルの協力は得られない状況の中、すでにパブリック・ドメインになっていた原作小説「フランケンシュタイン」を映画化したもの。この作品の成功を受けてハマーは『吸血鬼ドラキュラ』の制作に着手するが、この1958年時点で『ドラキュラ』の原作はパブリック・ドメインになっておらず(著作権が切れるのが原作者の死後50年の1962年)、原作の映画化権(ハミルトン・ディーンの舞台劇台本の権利も含む)を握るユニバーサルの許諾無くしてはドラキュラの映画化は不可能であった。ユニバーサルは「世界配給の権利」を条件にドラキュラの映画化を許可したものの、舞台劇、及び『魔人ドラキュラ』(1931)のプロットの使用には難色を示したという。ハマーは原作小説を簡略化する方法を採用した。そして『吸血鬼ドラキュラ』は世界的な大ヒットを飛ばし、当時倒産の危機にあったユニバーサルの経営危機を救うことになる。この時ハマーはユニバーサルが映画化してきた作品群をカラーでリメイクする企画を立てていた。『透明人間』(1933)、『Mummy's Hand』(1940)、『オペラの怪人』(1943)などがラインナップされていたが、ここでハマーが選択したのは『Mummy's Hand』(1940)であった。ミイラ男はフランケンシュタインやドラキュラのように原作が無く、純粋にユニバーサルが作り出したキャラクターである。ハマーはユニバーサルから登場人物の名前や物語の設定の使用許可を得、ここで初めて「ユニバーサル独自の怪奇映画の完全リメイク」として『ミイラの幽霊』を完成させたのである。

【ミイラのメイク】

 本作のメイク・アップはロイ・アシュトンの手による。この時期のアシュトンはハマーのメイク・アップ部門のアシスタントからチーフに昇格して間もない頃で、本作はチーフとしてクリストファー・リーと組む最初の作品となった。ミイラのメイクはリーのライフマスクを元に制作されており、マスクでありながらリーの面影をクッキリと残す仕上がりとなった。しかし、マスクがリーの顔にフィットしすぎ、その装着は楽ではなかったという。マスクには鼻と口に呼吸用の穴を開けていなかったため、リーはマスクの目の穴から空気を確保したいた呼吸をしていたという。

ミイラ男の容姿は作品中にいくつかのバージョンが確認できる。霊廟で復活する回想シーンの「包帯を巻いただけの状態」と、沼から出現して以降の「泥を被った状態」のもの。さらに細分化すると、沼から出た直後の「濡れた泥を被った状態」と、「付着した泥がそのまま乾燥してしまった状態」だ。話の流れに沿って芸の細かいこだわりを見せている。これも本作の見どころの一つだろう。

【ミイラの苦労】

 ミイラに扮したクリストファー・リーは撮影中に怪我が絶えなかったとのこと。扉に体当たりして肩を脱臼、女優を抱きかかえて歩くシーンで背中を痛め、沼に入って歩くシーンでは、銃で撃たれるシーンでは弾着の激しい爆発によって火傷を負い、ミイラ男が壊す扉になぜか鍵がかかっていてそれを知らずに体当たりして肩を脱臼、沼地のシーンでは女優を肩に担いで歩くシーンで背中を痛め、沼地に沈んでスタンバイした時には酸素補給のために仕込んであったボンベの口が見つからず、水中には水面に泡を出すためのパイプで埋め尽くされており、歩くたびにパイプやタンクに膝をぶつけ、その都度リーの悲鳴と罵声がスタジオに轟いたという。


【ドラキュラvs.ドラキュラ】
 
The_mummy1959_2.png 主人公ジョンの叔父ジョセフ・ウィンプルに扮しているのはイギリス演劇界の重鎮レイモンド・ハントレー。彼は20年代にハミルトン・ディーンの戯曲「ドラキュラ」の本国上演でドラキュラを演じた役者である(その時若干22歳だった)。後にこの芝居がブロードウェイに渡った時にドラキュラを演じたのがベラ・ルゴシだ。ジョゼフ・ウィンプルはミイラ男カリスに首を絞められて殺されるが、このシーンはまさに「新旧ドラキュラ役者の夢の共演」となった。

【カッシングは足に怪我?】 

 ピーター・カッシング扮するジョン・バニングは、蛇に噛まれて足に怪我を負っている設定で足を引きずっているが、本作の前に制作された『バスカヴィル家の犬』(1959)ではカッシング扮するホームズが洞窟の落盤によって足に怪我を負うシーンがあり、この時期はカッシング自身が本当に足を怪我していたのではないかと言われている。しかし、それが真実かどうかは定かでない。

太陽の怪物

hideous sun demon.jpg日本での公開は1962年で大蔵映画の配給。
「世界怪談集」と銘打ち、「沖縄怪談・逆吊り幽霊/支那怪談・死棺破り」との併映で、邦題は「米国怪談・太陽の怪物」であった。「米国・支那・沖縄」と3本立てのようで、実は2本立ての興行である。

怪物のマスク造型は実に見事であるが、太陽光にさらされるという宿命が難点で、自然光のもとでは、せっかくの造型も「着ぐるみ」にしか見えず、そこのところがかえすがえすも残念である。暗がりでは本当に見事な怪物なのに・・・。

死体解剖記

「バークとヘア連続殺人事件」の実話を基に作られた作品。
「オーメン(1976)」でベイロック夫人を演じた、ビリー・ホワイトローが被害者メアリーを演じている。
「フランケンシュタインの逆襲(1957)」で、子供時代のビクターを演じた メルビン・ヘイズの姿も見られる。
ともにバークとヘアの手にかかる。
このジム(メルビン・ヘイズ)の遺体とノックス(カッシングが)対面するシーンは、ちょっとニヤリとせざるを得ない。

Flesh and the Fiend.jpg★バークとヘア連続殺人事件 (1827-28)
19世紀初頭、イギリスのスコットランドはエジンバラ。
ウィリアム・バークとウィリアム・ヘアの二人組が、17人を殺害し、エジンバラ医学校に死体解剖用に売ったという事件。
取引は全てロバート・ノックス医師(1791‐1862)である。
1832年以前、イギリス医学界では、研究・教育の解剖用に合法的に得られる死体が慢性的に不足していた。19世紀にはいると医学の発達著しく、その需要は増えたが、『血の法典』の改正により、さらに供給が減り、そのため、死体調達の裏ビジネス(墓泥棒)が横行するようになる。
バークとヘアの事件はそんな時代に起きた。 当初は墓泥棒であったが、遺族の監視などで死体が手に入りにくくなったことと、より新鮮な死体の方が高く売れることなどから死体調達の方法が連続殺人に発展した。
事件発覚後、バークは死刑に処され、その体は皮肉にも、解剖用に回されて医学に貢献することになった。ヘアは犯行の自白とバークに不利な証言をすることで訴追を免れた。1829年に釈放、その後の消息は不明である。
バークとヘアは、ハマー・ホラー「ジキル博士とハイド嬢(1971)」にも登場する。