1960⇒1969

2021年1月アーカイブ

吸血鬼ドラキュラの花嫁

 ハマーのドラキュラ・シリーズ第2作。ドラキュラ死後の後日談で、ピーターカッシング扮するヴァン・ヘルシング博士が再び登場。ドラキュラの弟子、マインスター男爵一派と対決する。
 経営難に陥っていたユニバーサル社は、同社配給の『吸血鬼ドラキュラ』(1958)のヒットによって倒産を免れ、ハマー・プロに賛辞を贈るとともに続編の制作をもちかけた。プロデューサーのアンソニー・ハインズは脚本家のジミー・サングスターに『Disciple of Dracula(ドラキュラの弟子)』というタイトルの脚本を依頼。
 草稿では、近隣の学校の女生徒二人を毒牙にかけた吸血鬼マインスター男爵が村に訪れた二人の英国女性を狙い、主人公ラトゥールがドラキュラの亡霊を召喚して男爵を倒すという内容だった。このプロットではドラキュラはカメオ出演程度のものだった。
 同時にハマーは別の企画、クリストファー・リーのドラキュラ物『Dracula the Damned(忌まわしきドラキュラ)』の制作スケジュールを組んでいた。その後ハマーはピーター・ブライアンに『Disciple of Dracula』の書き直しを指示。これによりドラキュラの登場がカットされ、ラトゥールはヴァン・ヘルシング博士に変更された。タイトルは『Brides of Dracula』となる。ここではヴァン・ヘルシングが黒魔術でコウモリの大群を召喚し、吸血鬼を倒す事になっていた。さらにブライアンはサングスターの草稿での2人の女性主人公を1人にまとめた。それが本編のヒロイン、マリアンヌ・ダニエルである。ヴァン・ヘルシング役は勿論、ピーター・カッシングがキャスティングされた。
 同時にドラキュリー再登場の『Dracula the Damned』の企画は消滅。リーはハマーで着実にキャリアを積んでいたものの、この時点でハマーはリーを重要視していなかったようだ。ハマーのスターはあくまでピーター・カッシングだったのである。
 さて、ここで問題が発生する。カッシングがブライアンの脚本の「ヘルシングが黒魔術を使ってコウモリの大群を召喚する」ことに難色を示したのである。脚本はカッシングの演劇仲間の作家エドワード・パーシーに委ねられた。パーシーの修正は最小限だったが、カッシングを納得させるには充分だった。その後、BBFC(全英映像等級審査機構)の監査を経て、撮影直前に書き直すなどし、1960年1月に撮影台本が完成。

 ヘルシングが黒魔術で吸血鬼を倒すという案は後に『吸血鬼の接吻』(1963)で採用されるが、ジミー・サングスターの草稿は、ある意味で同作のプロットそのものともいえる。

 マリアンヌ役にフランスの女優イボンヌ・モンローが招かれた。彼女はフランスから母親と共に渡英、ブリテンに滞在中に『殺人鬼登場』、『吸血鬼ドラキュラの花嫁』、『Terror of Tongs』(いずれも1960年)と、立て続けにハマーフィルムの作品に出演。彼女はハマーの上層部に気に入られていたが、その理由はブリジット・バルドーに似ていたからである。この時期、ハマーではバルドーのファンが多く、本人の出演を熱望していたのだった。(※なぜ実現しなかったのかは不明)

 マインスター男爵役には無名のデヴィッド・ピールが配役された。背が低かったために底上げの靴とジンジャーキッス・カールの大きなかつらで身長を嵩上げして役に挑んだ。マインスター男爵は設定ではティーン・エイジャーだったが、実年齢が40歳だった彼には無理があったが、それでも、この狡猾にして冷酷な吸血男爵を小器用に好演した。