1970⇒1979

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恐竜の島

 怪奇映画の殿堂ハマー・プロダクションの競合として知られるアミカス・プロが、アメリカAIPの資金援助を受けて制作された、エドガー・ライス・バロウズ原作の『時間に忘れられた国(創元推理文庫表記)』の映画化作品。
 1970年代に入ると時代はホラー映画の変革期、大手によるビッグバジェットのホラー映画が発表される中でアミカスも苦戦を強いられることになったが、満を持しての本作の成功によって、以後は低予算の怪奇映画を数多く作る制作体制から、本数を少なくして比較的制作費の高い冒険映画を製作していく方向にシフトチェンジする。

 バロウズの原作では小説の前半分が大西洋上の連合軍とドイツ海軍の攻防を通して、複雑に入り組んだ人間ドラマが描かれるが、映画ではほぼそれが描かれない。主人公のボウエンは若干22歳の造船技師で、父親の会社は世界各国に戦艦を売っていた死の商人である。かくいうU-33はボウエンが製造の指揮を執った潜水艦で、ボウエンは自分が作った潜水艦に襲われる事態を「フランケンシュタイン」になぞらえる。翻って、このような伏線があったため、ボウエンは敵艦に関してどの敵将校よりも詳しかった故、潜水艦を乗っ取ることが出来たのだった。彼は海上で救出した謎の女リサと共に行動し恋心を抱くも、彼女にはドイツ将校の許嫁がいた。それが彼らを襲ったUボートの艦長ショーエンフォルツである・・・といった具合に、小説には主人公たちが恐竜島カプローナに到着するまで、幾重もの面白いどんでん返しが用意されているが、映像化するにはこの前半のシークエンスはあまりにもボリュームが大きかった。

 アミカスはボウエン役には当初、スチュアート・ホイットマンを考えていたが、AIPが反対し、結果としてダグ・マクルーアにお株が廻って来た。マクルーアはこれを皮切りに『地底王国』(1976)、『続・恐竜の島』(1977)、とアミカス制作のSF冒険映画に出演、70年代を代表するB級映画のスターとして知られるようになる。

撮影はイギリスのシェパートンスタジオ、カプローナ島のロケーションはスペインのカナリア諸島にあるテネリフェ島で行われた。

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炎のいけにえ

 原題の"MACCHIE SOLARI"は「太陽の黒点」のこと。猛暑によって人々が自殺願望に駆られる冒頭からシモーナが暑さと疲労から死体が動き出す幻覚に悩まされるまでのシークエンスは、実に猟奇・怪奇なテイストで描かれる。ここは、「暑さによって人がストレスを爆発させる状況下で展開される物語」であることを示唆する状況説明としては非常に秀逸で、本題の物語の影が薄くなるほどに印象的な導入である。

 物語は自殺が多発している社会情勢を利用した犯罪劇。殺人犯は巨万の富を手中に収めるため、シモーナのすぐそばで暗躍し、邪魔者を自殺に見せかけて殺していくのである。ホラー映画というと少々肌色が違う作品だが、ショッキングな猟奇描写を多用する演出のためにしばしばホラー映画関連の書籍で紹介される作品だ。サスペンス・ミステリーとはいっても、イタリア映画独特の「味」も手伝ってか、描写、ムード、どれをとってもホラー映画並みに気持ち悪い。何よりも国内でDVDリリースしたブランドが「HORROR TV」であった。

 主人公のシモーナを演じたのは、ダリオ・アルジェント初監督作品『4匹の蠅』(1971)のミムジー・ファーマー、その恋人エドガーに扮したのは『悪魔の墓場』(1974)で主人公を演じたレイ・ラヴロック。

 『悪魔の墓場』といえば、ジョージ・A・ロメロ監督作品"NIGHT OF THE LIVING DEAD"(1968)の模倣作品であるが、"NIGHT OF THE LIVING DEAD"は日本未公開なので、「人を襲い喰う生ける屍」が日本で初めて紹介された作品として知られる。『悪魔の墓場』は人の内臓を露骨に描写した初期の作品だが、同年『悪魔のはらわた』(1974)も公開された。これまた内臓描写のオンパレード(しかも3D)のフランケンシュタイン物。考えてみればこの時期のイタリア映画は「人体破壊描写」が台頭していた時期でもあり、『炎のいけにえ』のモルグのシーンはこの系譜とも言える。実際は本編とは何らかかわりのない幻覚シーンではあるが、前述のホラー映画に比べ、よりグロテスクに、かつ綺麗にまとまっていたところは特筆すべきところ。また、『夢(幻覚)オチ』という点では、ハマーの『吸血ゾンビ』(1966)を知るものとしてはニヤリとしたいところである。
 70年代は様々な恐怖要素を持つ映画が世界各国で乱作され、それらを包括して「恐怖映画」と呼ばれて一大ジャンルを築いた時代である。『炎のいけにえ』はそんな時代に作られた逸品だ。

 
 監督のアルマンド・クリスピーノは新聞に掲載された「太陽の異常活動によって生まれる電磁波によって、夏は自殺者が増える」という仮説に着想を得、ルチノ・パリストラーダと共同で脚本を執筆し、メガホンを取った。クリスピーノは本作の前に"L'ETRUSCO UCCIDE ANCOLA(死者は生きている)"(1972)というサスペンス・ムービーを撮っている。本作と合わせてこの二本はクリスピーノの代表作とされている。また、『炎のいけにえ』に続く監督作は"FRANKENSTEIN ALL' ITALIANA"(1975)で、これはフランケンシュタイン物のコメディだった。

 
【参考文献】
HORROR TV DVD「炎のいけにえ」 プロダクション・ノート(山崎圭司)