1970⇒1979

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ヘルハウス

 リチャード・マシスン原作の長編小説「HELL HOUSE」の映画化作品。
legend_hell_house.jpg 心霊を「有機体」とし、あくまで実存するものとして描いているところにこの作品の面白さがある。このベラスコ邸は、その家の主ベラスコの怨霊に支配されている屋敷であり、その秘密を探ろうと訪れた者はことごとく、殺されるか気が狂うか、どの道五体満足では帰れない恐ろしい屋敷だ。
 このベラスコ氏は、「吠える巨人」の異名を持つ、身長2メートルの大男と言われている。しかし、実は短足の小男であった。そのコンプレックスを誰にも知られたくない。よってベラスコ邸は、その秘密を徹底的に守る要塞と化していた。
 実は、この秘密がこの映画の大オチなのだが、どうももう少しひねりがあるようだ。
 この映画の面白いところの一つは、同時期の「エクソシスト(1973)」が、「存在不明な悪霊」を聖職者が悪魔払い(暗示)することなのに対して、「実存的な悪霊」を科学的に解明しつつ、機械の力で除霊するところである。この機械には実際「除霊」する機能がある。そして一応の除霊に成功したバレット博士は除霊した後に命を落とす。除霊しきれていなかったのだ。ベラスコの方が一枚上手でベラスコの霊の拠点となる部屋は鉛で覆われており、この機械の効力が及ばないのだ。
 ところで話はちょいと飛ぶが、ベラスコは自分の足が短いことを気に病んで、両足を切断し、長い義足をつけていた。では、これを本当に未来永劫、隠ぺいしたかったのだろうか?実はそうではない。映画の冒頭にベラスコが吹きこんだレコードが出てくる。

「お探しの物はこの屋敷にある。」

探せと言うからには、探させる意図がある。 ここから「ゲーム」が始まる。ベラスコは人に危害を加える時に必ずヒントを残す。それが「足」だった。つまり巨人と言われたベラスコは、実は自分がチビだったことを本当に「コンプレックス」に思っていたのではなく、それを謎の「答え」にしたのだった。

最後に謎を解いたフィッシャーは
「ベラスコは天才だったのかもしれない。除霊する機械が出てくることを予見したのだから」
という。でもこれもある意味違う。ベラスコの立場になってみると、あれだけ厳重に防衛した謎を解ける者は当分出てこないはずで、謎が解かれる前に(実存的な)霊魂を排除する機械が開発される可能性を考えると、ゲームは未完のまま終わってしまう。 だからそれを視野に入れた仕掛けを作るのは理にかなっている。

 このゲームの最後の「呪文」は「お前は本当はチビだろ!」であり、ベラスコにとってこれは「誰にも知られたくない秘密」だったのではなく、ベラスコが用意した「解答」に過ぎなかったのである。 謎が解けた後は、除霊されてもかまわない。だから「チビ」とののしられた時に部屋のドアが開いたのである。 そして部屋にあったベラスコの死体は「解答の証明」にどうしても必要だったのだ。本当に身長の低さを知られたくないのならば、義足をつけた自分の死体を保存しておくはずが無い。(私だったら火をつけて屋敷もろとも消滅させるわい。)で、このゲームは、間違った解答を出した者は命を落とすか大けがを負うことになっている。霊媒のフロレンスは勘違いして命を落とした。バレット博士はしょっぱなから方向性を違えていたので殺された。助かったのは謎を解いたフィッシャーと、バレット博士の奥さんの二人だ。フィッシャーは用心しながら事件の根幹を探っていた。奥さんは恐らく、ベラスコ自身の霊媒であり、謎解きの撹乱役、いわばゲームの仕掛け人でベラスコの協力者である。こう考えると、ゲームに参加していたのは3人で、謎の解明に向かっていたのはフィッシャー1人であり、フロレンスはご都合主義で簡単な解答に収まり、バレット博士はゲーム自体を壊そうとして失敗したのである。・・・と、私はこの映画をこう解釈した。

 ところで、この映画の監督は、ハマーで数本監督作品を残したジョン・ハフ。ハマーのスタッフが技術指導したとも言われている。
 些細なことであるが、この映画には「吸血鬼ドラキュラ(1958)」のオープニングで登場した鷲の彫刻とそっくりな物が出てくる。どうも見たところ、同じ物のようだ。新造したとしても似すぎているのである。「使いまわし」と考えた方が自然だ。 ベラスコの死体役がマイケル・ガウで、しかもノン・クレジットの出演。 ハマーファンは、ベラスコの死体が出てきた時にひっくり返る仕掛けになっている。

非常に曲者な作品なのだ。