フランケンシュタインの最近のブログ記事

断頭台に送られた男爵が処刑の立会人を買収して生き延び、偽名を使って潜伏し、再び人造人間製造を企てる、ハマーのシリーズ第2作目。 

前作の陰鬱さを漂わせる作りとは裏腹に、幾分ライトに仕上がった作品。怪奇映画というよりはSF映画としての趣が強い。映画全体の色調、雰囲気も明るく、何よりハッピーエンドであるところはフランケンシュタイン映画としては珍しい。 

前作での男爵はその本性が描かれていたが、本作では男爵の社交性を前面に立たせている。 
男爵は極めて優雅であり、魅力ある人当たりの良い人物でもあった。 

残酷シーンはほとんど見られない。面白いことに、そのメスさばきは男爵の食事のシーンに活かされている。大きなナイフとフォークで鶏を切り分け、それを別皿に置き、その皿を手に取り、指で鶏をつまんで口に放り込む。その所作の実に見事なこと! 

男爵が天才医師であることを、この1シーンで間接的に表現しているところが、洒落ている。 

「『フランケンシュタイン』とは怪物の名ではなく、怪物の創造者の名前である」とはよく言われる。 
ところがこの作品では、最後に男爵自身が人造人間になってしまう、という、なんとも皮肉な締めくくりであった。 

とりあえず、「逆襲」と「復讐」で、1つの物語が完結するのであった。 

ちなみに、最後にフランク博士の病院のあるハーレー・ストリートは、ロンドンに実在する有名な通りで、何と医療機関が集結していることで知られている。 

人知れず、フランケンシュタイン男爵がそこで病院を開設しているのである。怖い怖い。
 戦前、アメリカのユニバーサル社がお家芸としたフランケンシュタイン映画を、戦後にイギリスのハマープロダクションが色鮮やかな総天然色で、装い新たに展開したシリーズの第一作目。ユニバーサルが「モンスターの恐怖」を主軸に描いたのに対して、作り手であるフランケンシュタイン男爵の「常軌を逸した所業」がストーリーベースである。 

 ピーター・カッシング扮する男爵は卑怯、狡猾、残忍と、人の思いつく悪を全てこなす「真正の悪人」として描かれる。己の信念に対して異様なまでに狂信的だ。 

「自分はひとかどの人物で、凄いことが出来るはずだ。失敗するのは全て無理解な他人の責任。」 

という困った人は現実世界でも度々見られるが、男爵はそういう人である。その男爵の目に余る行為の数々。 

・「買い物」から帰って来た男爵が嬉々として包みを開けると「人の手」が出てくる。 
・ブニョブニョした目玉をピンセットでつまんで見つめる男爵。 
・男爵に2階から突き落とされた老科学者が床に頭を叩きつけられる。 

といった、露骨な描写が次々に登場する。 

世界初の総天然色のフランケンシュタイン映画でのこと、当時の観客は卒倒したことであろう。そういう表現はそれまでに無かったのだから。 

 フランケンシュタイン映画につき物の「怪物」に扮するはクリストファー・リー。自らの意思を持たず、濁った眼差しでヨタヨタ歩きながら人を殺すだけ、という様は、「フランケンシュタインの怪物」というよりは、男爵の実験の「不出来な結果」に終始しており、まさにアン・デッド=歩く屍のそれであった。これはこれで説得力があって怖く、不気味だ。 

 この映画は、今となっては映画史の1つの事件であった。この作品を皮切りに、翌年の「吸血鬼ドラキュラ」が発表され、一大センセーションを巻き起こし、後のハマー・ホラーの隆盛、強いては60年代の怪奇映画ブームに繋がる。「吸血鬼ドラキュラ」がユニバーサルの経営危機を救った話は有名。次いで「クレオパトラ(1963)」で、倒産の危機に追い込まれた20世紀フォックスもまた、ハマーホラーの興業で難を逃れたとも言われる。 

 そして、ピーター・カッシングとクリストファー・リーの登場。 

 この映画は、戦後、映画ファンに送られた「最高のプレゼント」と言っても過言ではないだろう。