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デビルズ・ゾーン - 1970年代

 若者たちがバカンスの途中で殺人鬼に追われる、というプロットの作品は多々あるが、本作でちょいと趣向が違うのは、その殺人鬼が「本物の魔法使い」であることだ。映画の性質上「超能力者」というのが正しいのだろうが、その力は完全に我々の知る「超能力」を逸脱しており、ほとんど「魔法」である。

 床に転がっている人形の首がゲタゲタ笑いだす、数多のマネキンがガタガタ動き出し、キャーと叫び、その顔はマリオネットのそれかと思えば、人間と寸分違わない姿で人を騙す。それを操る人形使いを「超能力者」と呼ぶにはあまりにも現象が荒唐無稽である。

 スローソンは凡庸な田舎のオヤジの風体だが、その実態は「超能力者」というよりは、悪魔や魔法使いといった「怪物」であった。

 また、スローソンがそうなってしまったのには、「弟と愛妻の不貞を目撃したことから二人を殺し、それでも妻に未練があったので妻のマネキンを作った」という、「黒猫(1935)」などの古典怪奇映画に時々見られる古風な理由があった。

 物語の下敷きは「悪魔のいけにえ」そのもので、スローソン自身も不気味な仮面を被って暗躍するところなどはレザー・フェイスのパクリであるが、やはりこう、マネキン軍団のインパクトが逸脱しており、(少なくとも筆者には)そんなパクリなどどうでもよくなってくるのだ。 

特撮はおそらく製作当時の目で見ても単純なものだったのだろうが、その稚拙さを逆手に取り、様々な工夫も功を奏して、不気味さを醸しだしている。閉店後の深夜のデパートでマネキンが動き出す、などという都市伝説的なシチュエーションを頭に思い浮かべたことのある人も多いと思うが、それを具現化してしまったのが本作である。

 監督によると、殺人鬼役のチャック・コナーズはそれまで定着していた「正義の味方のイメージ」からの脱却を図っていて、本作のような作品への出演を望んており、ホラー映画のスターになりたがっていた、という。

 仮面を被った怪人があの独特の大きなアゴで丸わかりなのはご愛敬。

 若者の1人を演じているのが、TVシリーズ「チャーリーズ・エンジェル」で人気を博した、売れる前のタニヤ・ロバーツである。
ハマーのシリーズ5作目。

久しぶりに極めて冷酷な男爵の登場である。いつものカッシングテイストの芝居であるが、緊張感が違う。また、シリーズの中で最も短髪でスタイルもカッチリまとまっており、それがまた冷酷さを増幅させているようだ。「スターウォーズ」のターキン総督の若い頃はこうだったかもしれない、という印象。 

 男爵は「ノックス博士には二人の助手がいた」とカールに説く。イギリスの犯罪史でも知られる「ロバート・ノックス医師と、検体用の死体調達人バークとヘアによる連続殺人」の事件のことだ。男爵はノックス博士に自分を投影するのだ。カッシングは1959年に「死体解剖記」でそのノックス医師に扮している。事情通にはちょいとニヤリとしてしまう一幕。 

 加えて、男爵による通り魔殺人と、核心に迫りながらも結局犯人を捕まえることの出来なかった警察は、切り裂きジャックの事件を彷彿とさせる。 

 イギリスに暗い影を落とした歴代の猟奇殺人事件が色濃く反映されているようだ。イギリス人にとっては風刺的な作品だったのではないだろうか? 

 宿屋のサロンで宿泊客が、男爵がいる場で、新聞の(男爵の起こした)殺人事件の記事を話題にし「(殺人鬼が)隣にいても気付かないのが怖い」と語るところは、思うに「イギリス国民の心情」そのままなのであろう。 

 サスペンス性が強く、スピーディな展開。日本で公開された最後のハマー・プロのフランケンシュタイン映画である。 

 一瞬、スタッフが映ってしまうダウトがある。
ハマーのシリーズ4作目。
作「フランケンシュタインの怒り」はフレディ・フランシスが監督だったが、本作でテレンス・フィッシャーに戻った。フィッシャーにとっては実に9年振りのフランケンシュタイン映画である。 

 不幸な若い恋人たちの悲恋に重点が置かれている。ハンスの父親は子供のハンスの目の前で首を飛ばされ、ハンスもまた、愛するクリスティーナの目の前で父と同じ死に方をする。親子二代に渡って、一番見られたくない人の目の前で命を絶たれるこのあたりは、非常に残酷だ。 

 「二人の魂は天国で結ばれました」という話はよくあるが、男爵が「魂は物体であり、死んでもある一定時間は体内に残る」ことを証明してしまったために、二人の魂はクリスティーナの中で融合する形で結ばれてしまった。また、二人の清い心は、あまりにもあまりの仕打ちに「凄まじい憎悪に満ちた怨念」に変わり、結果的に女性の形をした「怪物」になり果ててしまったのである。 

 復讐を遂げたクリスティーナは「男爵の目の前で」川に身を投げて命を絶つ。因果応報。男爵は最後の最後に、二人と同じ目を見た・・・と私は思う。暗く、救いが無く、とてつもなく悲しい物語であった。 

 「フランケンシュタインの逆襲」から数えて、ハマーホラーが10年目を迎えた時の作品。 
翌年の1968年にハマー・フィルムは莫大な利益を国にもたらした功績により、エリザベス女王から勲章を受ける栄誉を授かる。この時すでにホラー映画の世界市場はハマーホラーの独擅場であった。 

 また同時に、「2001年宇宙の旅」「猿の惑星」「ナイト・オブ・ザ・リヴィングデッド」の発表によって、SF・ホラー映画は新時代を迎えることになる。
 ハマーのシリーズ3作目。
 本作は屈折したフランケンシュタイン男爵の事情を正当化した上で「男爵の主観」で描かれている。そのため、本来の「正義」が敵役となっている。れもあって、ハマー独特の「人を殺してまで人を作る」という常識に反したテーマはなりをひそめている。 

 前二作に干渉しない独立した1話完結の物語である。ユニバーサルの世界配給作品であるため、ユニバーサルのフランケンシュタイン映画の設定を許可されたこともあり、シリーズ初めて「あの怪物」が登場する。ある意味、ハマープロで製作された「ユニバーサル作品の直球リメイク」と言えるかもしれない。 

 ユニバーサルのモンスターは「酒好き」の面を見せたが、本作の怪物もそれを踏襲しており、加えて酒乱であった。クライマックスは酒に酔った怪物が大暴れして破壊行為に及び、間違ってクロロホルムを飲んでさらに暴れ、城が爆発して終わる。 

シリーズの中で最も賑やかである。
断頭台に送られた男爵が処刑の立会人を買収して生き延び、偽名を使って潜伏し、再び人造人間製造を企てる、ハマーのシリーズ第2作目。 

前作の陰鬱さを漂わせる作りとは裏腹に、幾分ライトに仕上がった作品。怪奇映画というよりはSF映画としての趣が強い。映画全体の色調、雰囲気も明るく、何よりハッピーエンドであるところはフランケンシュタイン映画としては珍しい。 

前作での男爵はその本性が描かれていたが、本作では男爵の社交性を前面に立たせている。 
男爵は極めて優雅であり、魅力ある人当たりの良い人物でもあった。 

残酷シーンはほとんど見られない。面白いことに、そのメスさばきは男爵の食事のシーンに活かされている。大きなナイフとフォークで鶏を切り分け、それを別皿に置き、その皿を手に取り、指で鶏をつまんで口に放り込む。その所作の実に見事なこと! 

男爵が天才医師であることを、この1シーンで間接的に表現しているところが、洒落ている。 

「『フランケンシュタイン』とは怪物の名ではなく、怪物の創造者の名前である」とはよく言われる。 
ところがこの作品では、最後に男爵自身が人造人間になってしまう、という、なんとも皮肉な締めくくりであった。 

とりあえず、「逆襲」と「復讐」で、1つの物語が完結するのであった。 

ちなみに、最後にフランク博士の病院のあるハーレー・ストリートは、ロンドンに実在する有名な通りで、何と医療機関が集結していることで知られている。 

人知れず、フランケンシュタイン男爵がそこで病院を開設しているのである。怖い怖い。
 戦前、アメリカのユニバーサル社がお家芸としたフランケンシュタイン映画を、戦後にイギリスのハマープロダクションが色鮮やかな総天然色で、装い新たに展開したシリーズの第一作目。ユニバーサルが「モンスターの恐怖」を主軸に描いたのに対して、作り手であるフランケンシュタイン男爵の「常軌を逸した所業」がストーリーベースである。 

 ピーター・カッシング扮する男爵は卑怯、狡猾、残忍と、人の思いつく悪を全てこなす「真正の悪人」として描かれる。己の信念に対して異様なまでに狂信的だ。 

「自分はひとかどの人物で、凄いことが出来るはずだ。失敗するのは全て無理解な他人の責任。」 

という困った人は現実世界でも度々見られるが、男爵はそういう人である。その男爵の目に余る行為の数々。 

・「買い物」から帰って来た男爵が嬉々として包みを開けると「人の手」が出てくる。 
・ブニョブニョした目玉をピンセットでつまんで見つめる男爵。 
・男爵に2階から突き落とされた老科学者が床に頭を叩きつけられる。 

といった、露骨な描写が次々に登場する。 

世界初の総天然色のフランケンシュタイン映画でのこと、当時の観客は卒倒したことであろう。そういう表現はそれまでに無かったのだから。 

 フランケンシュタイン映画につき物の「怪物」に扮するはクリストファー・リー。自らの意思を持たず、濁った眼差しでヨタヨタ歩きながら人を殺すだけ、という様は、「フランケンシュタインの怪物」というよりは、男爵の実験の「不出来な結果」に終始しており、まさにアン・デッド=歩く屍のそれであった。これはこれで説得力があって怖く、不気味だ。 

 この映画は、今となっては映画史の1つの事件であった。この作品を皮切りに、翌年の「吸血鬼ドラキュラ」が発表され、一大センセーションを巻き起こし、後のハマー・ホラーの隆盛、強いては60年代の怪奇映画ブームに繋がる。「吸血鬼ドラキュラ」がユニバーサルの経営危機を救った話は有名。次いで「クレオパトラ(1963)」で、倒産の危機に追い込まれた20世紀フォックスもまた、ハマーホラーの興業で難を逃れたとも言われる。 

 そして、ピーター・カッシングとクリストファー・リーの登場。 

 この映画は、戦後、映画ファンに送られた「最高のプレゼント」と言っても過言ではないだろう。
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「フランケンシュタイン(1931)」の続編で、物語に感激したバイロン卿がメアリー・シェリーを称賛するエピソードから始まり、メアリーの「この話には続きがあるの」という「マクラ」が差し込まれる。メアリーシェリーに扮しているのは、「花嫁」役のエルザ・ランチェスターである。ちなみに、そのくだりで大きな犬を二匹連れた女中が一瞬登場するが、これはミニー役のウーナ・オコナーだという。

初作と物語は繋がっているが、様々な変更点があり、つじつまが合わない点がいくつか。

・初作ではいなかったフランケンシュタイン家の女中ミニーの登場
・マリアの父親の名前がルドヴィックからハンスに変更されている。
・「フランケンシュタイン男爵」は初作ではヘンリーの父のことであったが、本作では父が存在せず、ヘンリー=男爵となっている。

等々。

モンスターは「全身に火傷を負っている」という設定で、時間の経過によって治癒していくようにメイクアップが施されている。

本作では、ボリス・カーロフの名は「KARLOFF」と苗字のみの表示となっている。「苗字で呼ばれる」というのはハリウッドにおける大スターの証であるという。「フランケンシュタイン・モンスター」は、単にホラー映画のキャラクターだけにとどまらず、アメリカ映画の象徴的な存在であったことが垣間見えるエピソードである。

1998年にアメリカ国立フィルム登録簿に登録されている。

月光石 - 1930年代

ghoul400-2.jpgのサムネール画像長年、「失われた映画」として知られていたが、プラハにある「チェコ・ナショナル・アーカイブ」で海外輸出版のプリントが発見された。しかし、このプリントはコンディションが非常に悪いものだった。(恐らく、オープニング、エンドクレジットがカットされ、その他、残酷シーンなどがカットされた物。)後年、本国公開の完全版が発見された。
ラルフ・リチャードソンの映画デビュー作である。
カーロフ、アーネスト・セシジャー、セドリック・ハードウィックと、フランケンシュタイン・レジェンドの役者達が勢ぞろいしている。ついでにいうと、ラルフ・リチャードソンも「真説フランケンシュタイン」に出演。英国を代表する名優も、本作においては小僧である。

鬼婆 - 1960年代

 北陸に伝わる「嫁おどし肉付きの面」の伝承をベースに、新藤兼人が脚本を書き下ろし、乙羽信子主演で監督。

 
 映画愛好家のニコラ・ド・グンツブルグ男爵が出資者となり、自ら「ジュリアン・ウェスト」の名で主演した。

 ほとんどの出演者が素人で、演技の心得のあった者はレオーヌ役のシビレ・シュミッツと、老紳士役のモーリス・シュッツのみであったと言われる。

 吸血鬼の手下の医者の風貌は、後に「ポランスキーの吸血鬼」のアブロンシウス教授に影響を与えたとされる。

 古典映画、特に無声映画にはよくあることだが、編集が異なるバージョンが多々出回っており、いずれも完全なプリントではない。1990年代にリストアされて公開当時のドイツ語版に最も近いとされる、「ボローニャ版」がリリースされた

 公開当時の検閲で、吸血鬼殺害のシーンが「残酷すぎる」ということで、フィルムにして53mほど短縮された。
ボローニャ版はこれらのシーンは無いが、カットされたシーンは現存している。(ボローニャ版DVDに特典映像として収録。)