1930年代

1930⇒1939
 

 1933年あたりから音楽が映画の演出に効果的に使われるようになった。その基点となるのが『キング・コング』(1933)であると言われている。ユニバーサルでは『透明人間』(1933)で挿入曲が多用された。映画音楽が最も扇情的に使われたユニバーサル・ホラーは『フランケンシュタインの花嫁』(1935)であろう。続く本作『女ドラキュラ』もそれに追随する事になる。これによって、前作『魔人ドラキュラ』(1931)を凌駕するほどのムードを醸し出す吸血鬼映画となった。

 音楽を担当したハインツ・ロムヘルドはユニバーサルの音楽監督で、チャイコフスキーの「白鳥の湖 (第二楽章)」を『魔人ドラキュラ』用に編曲した作曲家である。

 『魔人ドラキュラ』(1931)の後日譚として作られた本作は、ブラム・ストーカーの短編『ドラキュラの客』を基にしたものだが、この短編の映画化権はMGMが原作者未亡人フローレンス・ストーカーから取得していた。これをユニバーサルが1934年にMGMから買い上げたが、1935年10月までに制作が開始されなかった場合、権利はMGMに返還される契約になっていた。後に契約は1936年2月まで延長され、ユニバーサルはそれに間に合わせたという。しかし、内容は当該小説には似ておらず、むしろシェリダン・レ・ファニュの『吸血鬼カーミラ』に基づく物語になっている。

 この当時はシリーズ物の概念が希薄だったのか、前作とは一貫性が無い箇所が多々ある。続編というよりは、「まったく違う物語」と解釈したほうが自然。ヘルシング教授はドラキュラ伯爵殺害の咎で逮捕されるが、現場にはジョン・ハーカーやミーナもいたはずで、ドラキュラが吸血鬼であることを立証する材料などいくらでもあった。それが本作ではまったく無いことになっている。すなわち『魔人ドラキュラ』はドラキュラに止めを刺した時点で完結しており、本作はヘルシングがドラキュラに止めを刺したところから始まっている「別の物語」という解釈が出来る。
 吸血鬼という民間伝承の怪物をテーマにしながら、当時の最新技術を尽くして吸血鬼を追い込んでいくという展開で、ドラキュラを公開当時の現代にアレンジした前作に比べても、より近代的なつくりになっている。社交界では腕時計や手持ちライターが登場。ヒロインのジャネットが誘拐され、トランシルバニアに逃げ帰ったザレスカ夫人を追うヘルシング教授はじめスコットランドヤードは、テレグラフを利用した写真手配書と通信技術を駆使して、果ては飛行機を飛ばしてトランシルバニアへ向かうという凄まじい起動力を見せる。先にドラキュラ城に乗り込んだガース博士を救うべく、彼らは銭形特攻隊よろしく、自動車を飛ばして城に駆けつけるのである。つまり映画史における、ヘルシング教授のドラキュラ城初登城は「車で駆け付けた」のである。

 グロリア・ホールデンにとっては初めての主演映画となったが、彼女はこの役が決まった時に嫌悪感を抱いていたという。ジャンルとして低く見られていた怪奇映画への出演が不満だったのだ。しかし、その嫌悪感が皮肉にも「ドラキュラの呪いから逃れたい」というザレスカ夫人の役作りに寄与してしまう。結果として、この作品が彼女の代表作になってしまった。
 グロリア・ホールデンはこの作品の翌年、「ゾラの生涯(1937)」で、ゾラの妻を演じている。ザレスカ夫人とは、間逆のタイプの役なので見比べてみるのも面白いと思う。

 本作を以てユニバーサル・ホラーのプロジェクトは一旦停止した。これは上客であったイギリス映画界が怪奇映画の上映に規制を張ったためにユニバーサルの収益の減少に繋がった事と、また同社がディアナ・ダービンのミュージカル映画に力を入れるためだったと言われる。そして、この時期にレムリ一族が経営から撤退を余儀なくされ、経営者が一新されたというお家事情もあった。さらに、20年代に社会問題になっていたギャング映画の残酷描写をけん制するために1930年に制定された映画描写の倫理規制ヘイズ・コードが1935年頃から円滑に稼働し始めたこともあり、怪奇映画の在り方を見直す必要もあった。いずれにせよ本作以降、『フランケンシュタイン復活』(1939)までの3年間はユニバーサルで怪奇映画は作られなかった。

 主演のライオネル・バリモアは俳優の名門バリモア家の長兄で、ジョン・バリモアを弟に、エセル・バリモアを妹に持つ。ドリュー・バリモアの大伯父にあたる。『グランド・ホテル』(1932)、『椿姫』(1936)、『我が家の楽園』(1938)、『素晴らしき哉、人生!』(1946)といった名作映画への出演が続く中で『古城の妖鬼』(1935)や本作のような怪奇テイストの作品にも幾多と顔を出した。

 本作はトッド・ブラウニングが無声映画時代に発表したロン・チャニー主演の『三人』(1925)のセルフ・リメイクである。自身の『London after Midnight』(1927)もまた『古城の妖鬼』(1935)としてセルフ・リメイクしている。

 本作はボリス・カーロフとベラ・ルゴシとの初の共演映画で、1934年度のユニバーサル映画で最高のヒットを記録した作品。監督のエドガー・G・ウルマーは美術監督の出身で、ドイツ映画『最後の人』の美術監督、『巨人ゴーレム』(1920)、『メトロポリス』(1926)、『M』(1931)等のセットデザインを手がけている。

 音楽はハインツ・エリック・ロームヘルドによる。テーマ曲だけでなく、映画全編に挿入曲が流れる最初期の作品でもある。

 エドガー・アラン・ポーの短編小説『黒猫』が下敷きになっているが、ピーター・ルーリックによる脚本には原作の面影はほとんど残されていない。本編で登場する黒猫は、過剰なまでに黒猫を忌み嫌うワルデガストの前に現れて彼を悩ませるだけの存在であった。しかし、黒猫が悪魔の化身であるという迷信や、死に対する恐怖、特定の女性に対する執着といったポーの作品の重要な要素が散見される。

 ポールジックの人物像はイギリスのオカルティスト(神秘主義者)であるアレイスター・クロウリーがモデルとなっている。また、ポールジックの名は『巨人ゴーレム』(1920)の美術監督を務めたドイツ表現主義を代表する建築家ハンス・ペルツィヒ(同スペルのドイツ語発音)からのイタダキである。ペルツィヒは本作がアメリカでの映画監督デビューとなるウルマーの助言役であった。ウルマーは本作の悪役をポールジックと名付けることにより、その礼に報いたのである。

 1930年に施行が試みられたヘイズ・コード(映画製作倫理規定)は、そもそもギャング映画への批判をけん制するためのものであった。コードの詳細が吟味されて本格的に始動するのは1934年のことであるが、1930年にすでに細部規定が定まっていたものの『魔人ドラキュラ』のような超自然的存在、すなわち「怪物」に対する規制が定められていなかった。この点に着目したアメリカ文化史家のデヴィッド・J・スカルは、これ以前に「Horror Movie」というジャンルが無く、「Horror Movie」という語句自体が多くの点で1931年に案出されたものであると言明した。これが『魔人ドラキュラ』がホラー映画第一号といわれる由縁である。(※1)

 初のトーキー・ホラー映画でもある。本作で最初に声を発したのは、トランシルバニアに向かう乗合馬車の中で「土地の観光ガイドを読みあげる」女性客役のカルラ・レムレ。彼女はユニバーサルの創設者であるカール・レムレの姪にあたる。

 そして、世界初のドラキュラ映画である。

 Dracula2.jpgストーカーの原作は小説が書かれた当時の現代劇で1885年の話だった。本作もまた、1931年当時の現代劇である。冒頭のドラキュラ城のシークエンスがあまりにも古色蒼然としているので、昔々の話、という赴きが強いのだが、ロンドンに舞台が移ると、街には自動車が跋扈している世界が広がる。ドラキュラ物語は、戦前までは現代劇になるのが通例であった。もとになった舞台劇も、ハミルトン・ディーンの戯曲をアメリカで公演する際、ジョン・L・ボルダストンによって「よりモダンに」改変されている。

舞台劇ではドラキュラは飛行機をチャーターしてトランシルバニアからイギリス・クロイドン空港に来、自ら税関手続きをして、そこからトラックをチャーターしてカーファックスへと渡ってくる。
また腕時計を着けていて、ヘルシングに十字架で追い込まれた時に日の出の時間を確認しながら逃げる演出まであるのだ。 (※2)

当初、映画でのドラキュラ役は、ロン・チャニーの予定だったが、チャニーが若くして急逝、その代役としてコンラート・ファイトやポール・ミュニ等、様々な名優が候補として挙がったが、そこにベラ・ルゴシの名は無かった。ルゴシは、役の獲得のために強烈なアプローチを実行したが、おせっかいが過ぎて、返って製作陣に煙たがられたという。
結果としてルゴシがドラキュラ役になったが、理由としては、「安くいいように使える」というところが大きかったようだ。

2000年にアメリカ国立フィルム登録簿に登録されている。

(※1:『映像学 68』日本映像学会 「葛藤の表出 アメリカのホラー映画研究序説 中野 泰 著」 11頁参照)
(※2:1979年に池袋西武劇場で上演された舞台劇の邦訳台本参照)

 月世界旅行をテーマとしたSF映画。現代ロケット工学の基礎的理論を構築し「宇宙旅行の父」と呼ばれたロケット理論の開発者コンスタンチン・ツィオルコフスキーを顧問として招き、当時の最先端科学の成果を緻密に映像化。ロケットの打ち上げや無重力遊泳、月世界探検等を当時の特撮技術の粋を尽くしてシミュレートされている。当時のソ連映画はプロパガンダの一環としての位置づけであったが、体制下で厳しい制約の中での映画製作を余儀なくされていたにもかかわらず、ユーモアあふれる作品に仕上がっていることは称賛に値する。

 当時のソ連ではまだサイレント映画がトーキー映画と並行して製作されていた時代で、本作はサイレント映画として作られたが、トーキーへの意識が非常に高く、サイレント映画であっても台詞字幕は、あたかも言葉が発せられているかのようにモンタージュの中に組み込まれた。本作もまたその方式に則った作品であり、サイレント映画であることを観客に意識させない字幕の在り方には、製作者の努力が垣間見られる。

 本編前半のロケットの格納庫の情景からロケット発射までの見事なまでのミニチュア・ワークは目を見張る。円谷特撮のミニチュア・ワークの原点がここにあった。そして、後半の見どころとなる月世界探検のシーンをハリウッドを圧倒するハイ・クオリティなモデル・アニメーションで表現しており、これもまた見事としか言いようが無い。

 日本では2001年8月4日より、東京三百人劇場で開催された「ロシア映画の全貌2001」にて初めて上映された。

肉の蝋人形

Wax3302.jpgワーナーブラザーズが試験的に採用していた、二色式のテクニカラーで制作された作品。
そのカラー映像は、白黒が主流だった時代にあって、異種異様な雰囲気を醸し出している。ことに、大火災で溶解していく蝋人形のシーンは後世の語り草となるほど強烈なインパクトがあり、後に何度となく模倣されることになる。

ちなみに、役者そのものが蝋人形の役割を果たしているが、当初の予定では本物の蝋人形を使うことになっていた。ところが、スタジオの照明の熱で蝋人形が溶け崩れてしまったために、役者に蝋人形をやらせることになったという。

主演のライオネル・アトウィルは、ユニバーサル社のホラー映画でおなじみのバイプレイヤー。ヒロイン、シャーロットは「キング・コング(1933)」のフェイ・レイ。彼らがカラー映像で観られるのは貴重だ。
本作は1953年にアンドレ・ド・トス監督、ヴィンセント・プライス主演で再映画化されている。

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「フランケンシュタイン(1931)」の続編で、物語に感激したバイロン卿がメアリー・シェリーを称賛するエピソードから始まり、メアリーの「この話には続きがあるの」という「マクラ」が差し込まれる。メアリーシェリーに扮しているのは、「花嫁」役のエルザ・ランチェスターである。ちなみに、そのくだりで大きな犬を二匹連れた女中が一瞬登場するが、これはミニー役のウーナ・オコナーだという。

初作と物語は繋がっているが、様々な変更点があり、つじつまが合わない点がいくつか。

・初作ではいなかったフランケンシュタイン家の女中ミニーの登場
・マリアの父親の名前がルドヴィックからハンスに変更されている。
・「フランケンシュタイン男爵」は初作ではヘンリーの父のことであったが、本作では父が存在せず、ヘンリー=男爵となっている。

等々。

モンスターは「全身に火傷を負っている」という設定で、時間の経過によって治癒していくようにメイクアップが施されている。

本作では、ボリス・カーロフの名は「KARLOFF」と苗字のみの表示となっている。「苗字で呼ばれる」というのはハリウッドにおける大スターの証であるという。「フランケンシュタイン・モンスター」は、単にホラー映画のキャラクターだけにとどまらず、アメリカ映画の象徴的な存在であったことが垣間見えるエピソードである。

1998年にアメリカ国立フィルム登録簿に登録されている。

月光石

ghoul400-2.jpgのサムネール画像長年、「失われた映画」として知られていたが、プラハにある「チェコ・ナショナル・アーカイブ」で海外輸出版のプリントが発見された。しかし、このプリントはコンディションが非常に悪いものだった。(恐らく、オープニング、エンドクレジットがカットされ、その他、残酷シーンなどがカットされた物。)後年、本国公開の完全版が発見された。
ラルフ・リチャードソンの映画デビュー作である。
カーロフ、アーネスト・セシジャー、セドリック・ハードウィックと、フランケンシュタイン・レジェンドの役者達が勢ぞろいしている。ついでにいうと、ラルフ・リチャードソンも「真説フランケンシュタイン」に出演。英国を代表する名優も、本作においては小僧である。

 映画愛好家のニコラ・ド・グンツブルグ男爵が出資者となり、自ら「ジュリアン・ウェスト」の名で主演した。

 ほとんどの出演者が素人で、演技の心得のあった者はレオーヌ役のシビレ・シュミッツと、老紳士役のモーリス・シュッツのみであったと言われる。

 吸血鬼の手下の医者の風貌は、後に「ポランスキーの吸血鬼」のアブロンシウス教授に影響を与えたとされる。

 古典映画、特に無声映画にはよくあることだが、編集が異なるバージョンが多々出回っており、いずれも完全なプリントではない。1990年代にリストアされて公開当時のドイツ語版に最も近いとされる、「ボローニャ版」がリリースされた

 公開当時の検閲で、吸血鬼殺害のシーンが「残酷すぎる」ということで、フィルムにして53mほど短縮された。
ボローニャ版はこれらのシーンは無いが、カットされたシーンは現存している。(ボローニャ版DVDに特典映像として収録。)

本格的な狼男を扱った世界初の作品。

この作品が作られる3年前に、パラマウントで「ジキル博士とハイド氏(1932)」(ルーベン・マムーリアン監督)が公開されている。
研究家の間ではしばしば、本作と「ジキル博士とハイド氏」の因果関係が語られるようだ。
徳の高い科学者が研究の暴走の結果、凶暴な獣人に変化してしまう、というプロットはスティーブンソンの「ジキル博士とハイド氏」そのもので、同作が無声映画時代から好まれて制作されたことを考えると、「倫敦の人狼」、強いては後年の狼男それ自体が「ジキル博士とハイド氏」の亜流とも言えるのではないだろうか?

狼男のメイク・アップはジャック・P・ピアース、特撮は戦前アメリカ映画の特撮王、ジョン・P・フルトン。「最古の狼男映画」とはいっても、その特撮技術はすでに完成されていて、手間のかかったものである。グレンドン博士の顔に隈ができる変身シーンは、前出の「ジキル博士とハイド氏」のそれと同一のものだった。

グレンドン博士の妻、リサに扮するのはヴァレリー・ホブスン。彼女は同時期、「フランケンシュタインの花嫁」でもフランケンシュタイン博士の妻、エリザベスにも扮しており、すっかり「怪奇な嫁女優」だ。撮影当時18歳というから、これまた随分・・・。

ワーナー・オーランド扮するヨガミ博士は、当初ベラ・ルゴシが予定されていたらしいが実現せず、後に「THE WOLFMAN(狼男の殺人)」で同じような役をやることになる。考えたらルゴシは、ドラキュラ、フランケンシュタインの怪物、狼男と三大モンスターを演じているのだが、ドラキュラ以外が「かすっている」ようなものなので、あまりそんな感じがしない。そもそも「THE WOLFMAN」では狼男役ではあったけれども、具体的なメイクはしていないし。そのかわり「獣人島(1932)」で獣人メイクはしている。

2010年公開の「ウルフマン」のアンソニー・ホプキンス扮する狼男は、本作の設定がベースとなったものだ。