1930⇒1939

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 1930年に施行が試みられたヘイズ・コード(映画製作倫理規定)は、そもそもギャング映画への批判をけん制するためのものであった。コードの詳細が吟味されて本格的に始動するのは1934年のことであるが、1930年にすでに細部規定が定まっていたものの『魔人ドラキュラ』のような超自然的存在、すなわち「怪物」に対する規制が定められていなかった。この点に着目したアメリカ文化史家のデヴィッド・J・スカルは、これ以前に「Horror Movie」というジャンルが無く、「Horror Movie」という語句自体が多くの点で1931年に案出されたものであると言明した。これが『魔人ドラキュラ』がホラー映画第一号といわれる由縁である。(※1)

 初のトーキー・ホラー映画でもある。本作で最初に声を発したのは、トランシルバニアに向かう乗合馬車の中で「土地の観光ガイドを読みあげる」女性客役のカルラ・レムレ。彼女はユニバーサルの創設者であるカール・レムレの姪にあたる。

 そして、世界初のドラキュラ映画である。

 Dracula2.jpgストーカーの原作は小説が書かれた当時の現代劇で1885年の話だった。本作もまた、1931年当時の現代劇である。冒頭のドラキュラ城のシークエンスがあまりにも古色蒼然としているので、昔々の話、という赴きが強いのだが、ロンドンに舞台が移ると、街には自動車が跋扈している世界が広がる。ドラキュラ物語は、戦前までは現代劇になるのが通例であった。もとになった舞台劇も、ハミルトン・ディーンの戯曲をアメリカで公演する際、ジョン・L・ボルダストンによって「よりモダンに」改変されている。

舞台劇ではドラキュラは飛行機をチャーターしてトランシルバニアからイギリス・クロイドン空港に来、自ら税関手続きをして、そこからトラックをチャーターしてカーファックスへと渡ってくる。
また腕時計を着けていて、ヘルシングに十字架で追い込まれた時に日の出の時間を確認しながら逃げる演出まであるのだ。 (※2)

当初、映画でのドラキュラ役は、ロン・チャニーの予定だったが、チャニーが若くして急逝、その代役としてコンラート・ファイトやポール・ミュニ等、様々な名優が候補として挙がったが、そこにベラ・ルゴシの名は無かった。ルゴシは、役の獲得のために強烈なアプローチを実行したが、おせっかいが過ぎて、返って製作陣に煙たがられたという。
結果としてルゴシがドラキュラ役になったが、理由としては、「安くいいように使える」というところが大きかったようだ。

2000年にアメリカ国立フィルム登録簿に登録されている。

(※1:『映像学 68』日本映像学会 「葛藤の表出 アメリカのホラー映画研究序説 中野 泰 著」 11頁参照)
(※2:1979年に池袋西武劇場で上演された舞台劇の邦訳台本参照)

 1930年代初頭の作品としてはかなり躍動的な印象がある。本作に比べると「魔人ドラキュラ」は非常に冗長で静的であるが、むしろ「魔人ドラキュラ」の方が当時の作風とも言え、逆に言えば本作「フランケンシュタイン」は当時としてはかなり斬新でショッキングな作品だったといえるのではないだろうか?


 当初、監督はロバート・フローリー、モンスターはベラ・ルゴシが予定されており、カメラテストも行われたが、そのテストは惨憺たる結果に終わった。ルゴシは台詞が無く、顔が隠れるメイクの怪物役を嫌い、プロジェクトを去った。この一件は「ルゴシのキャリアの中で最悪の選択だった」と言われているが、「フランケンシュタイン」の成功は、ボリス・カーロフが演じたモンスターのインパクトにあり、また、あのメイクアップも「カーロフの顔ありき」で構成されているものなので、ルゴシがモンスターを演じたとして、ここまで伝説的な作品になったかは疑問である。 

 モンスターのメイクアップは特殊メイクアップの歴史の中でも最も有名であり、「特殊メイクのカリスマ」的な位置づけである。メイクを手掛けたのはジャック・P・ピアース。当時はラバー素材が存在しなかったので、水糊や水絆創膏等の素材を駆使して、撮影の日ごとにモンスターのメイクを造型していった。そのため、シーンによって若干メイクに相違が生じているが、逆にいえば、その日その日にメイクを造形したにしては、映画全体として整合性が取れている。
 怪物が「電力によって蘇生する」という設定は、本作のオリジナルである。モンスターの首に付いている金属は、落雷の電気を通す「電極」である。これには+極と?極があり(どちらがどちらかは不明)、電力を逆に流すとモンスターは絶命する。この「弱点」は、本シリーズ5作目に当たる「フランケンシュタインと狼男」で明らかにされる。
 
 原作ではフランケンシュタインの名前がビクターで友人の名前がヘンリーだったが、本編では逆になっている。何故逆になったのかは定かではないが、下敷きとなったハミルトン・ディーンの戯曲の段階でこの逆転は採用されている。ちなみに舞台劇「ドラキュラ」でも、ミーナとルーシーの名前の逆転が成されている。

 アメリカフィルム登録簿(国家の責任によって永久保存される)に1991年に登録されている。ちなみに1989年の制度導入以来、ホラー映画としては初めてである。?
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draculaspanish.jpgのサムネール画像 英語版と同時進行で作られたスペイン語圏向けのアメリカ映画である。

 製作当時は、映画がサイレントからトーキーの時代に入ってまだ間もなく、吹替えの技術が発達していなかった事もあって、同じ脚本とセットを利用して、スペイン語を話す役者を揃えて撮影された。

 早朝からら夕方かけてアメリカ版が撮影され、スペイン版はスペイン版のスタッフがそれを見学した上で、夜間に撮影を行ったという。

 つまり、同時進行でありながら、ルゴシ版に影響を受けている作品でもある。

スペイン語圏のみの公開であったために、アメリカ未公開で、長らく「失われた作品」だった。

その昔、子供向けの怪奇映画の本で「魔人ドラキュラ ベラ・ルゴシ」とキャプションの付いた写真が掲載されていて、どうも顔が違う、と思っていたのだが、今考えてみればそれは、カルロス・ヴィラリアスであった。

 当時はアメリカとスペインでは映画表現の規制が違い、ズペイン版はアメリカに比べて幾分規制が緩かったこともあり、本作はアメリカ版に比べて、女優の衣装も過激であり、吸血シーンがダイレクトに描かれていたり等と、かなり躍動的である。当時では珍しい「移動カメラ」と「ズーム効果」をふんだんに使い、空間の大きさを上手く出している。この点に関しては明らかにアメリカ版を凌駕しているのであるが、逆にアメリカ版のカメラワークが当時の主流だったので、本作の方が革新的だったのかもしれない。

 要所要所で英語版で不採用だったカットが多様されており、明らかにドラキュラがルゴシである箇所がある。

 今の目で見ると、アメリカ版よりもこちらの方が映画としての体裁を保っているが、やはりルゴシの幽幻的でミステリアスな雰囲気には、カルロス・ヴィラリアスは及ばなかったようだ。ヴィラリアスはルゴシに比べて動きが多く、表情も豊かなのだが、逆にそれが人間くささを助長しているようで、怪物に見えないのである。また、対するヘルシング教授も過剰な表現のため、こちらも知能的に見えず、対決のシーンではまるで「コスプレオヤジとサラリーマンの喧嘩」のようである。