1930⇒1939

魔人ドラキュラ(1931)

"DRACULA"
アメリカ / ユニバーサル

[Staff]
制作:カール・レムリ.Jr
監督:トッド・ブラウニング
脚本:ギャレット・フォート
原作:ブラム・ストーカー、ハミルトン・ディーン(戯曲)
撮影:カール・フロイント
メイク:ジャック・P・ピアース
配給:ユニバーサル

[Cast]
ドラキュラ伯爵・・・ベラ・ルゴシ
ミナ・セワード・・・ヘレン・チャンドラー
ジョン・ハーカー・・・デヴィッド・マナーズ
レンフィールド・・・ドワイト・フライ
ヴァン・ヘルシング教授・・・エドワード・ヴァン・スローン

[Story]
トランシルバニアに巣くう吸血鬼ドラキュラ伯爵は、城にやって来た不動産業者、レンフィールドを下僕にし、ロンドンに渡る。
カーファックスを根城にしたドラキュラ伯爵は、隣家のセワード博士の娘・ミナと、その友人ルーシーを狙う。
まず手始めにルーシーを襲う伯爵。
ルーシーは死んだ。その身体からは血液が無くなり、首筋には2つの小さな傷が残されていた。
この奇妙な現象に当惑したセワード博士は、奇病の権威であるヴァン・ヘルシング教授に相談を持ちかけた。
教授は「吸血の仕業」であると断定し、調査に乗り出す。
ミナにもルーシーと同じ兆候が表れ始めた時、教授はドラキュラ伯爵と対面する。

[Text]

 1930年に施行が試みられたヘイズ・コード(映画製作倫理規定)は、そもそもギャング映画への批判をけん制するためのものであった。コードの詳細が吟味されて本格的に始動するのは1934年のことであるが、1930年にすでに細部規定が定まっていたものの『魔人ドラキュラ』のような超自然的存在、すなわち「怪物」に対する規制が定められていなかった。この点に着目したアメリカ文化史家のデヴィッド・J・スカルは、これ以前に「Horror Movie」というジャンルが無く、「Horror Movie」という語句自体が多くの点で1931年に案出されたものであると言明した。これが『魔人ドラキュラ』がホラー映画第一号といわれる由縁である。(※1)

 初のトーキー・ホラー映画でもある。本作で最初に声を発したのは、トランシルバニアに向かう乗合馬車の中で「土地の観光ガイドを読みあげる」女性客役のカルラ・レムレ。彼女はユニバーサルの創設者であるカール・レムレの姪にあたる。

 そして、世界初のドラキュラ映画である。

 Dracula2.jpgストーカーの原作は小説が書かれた当時の現代劇で1885年の話だった。本作もまた、1931年当時の現代劇である。冒頭のドラキュラ城のシークエンスがあまりにも古色蒼然としているので、昔々の話、という赴きが強いのだが、ロンドンに舞台が移ると、街には自動車が跋扈している世界が広がる。ドラキュラ物語は、戦前までは現代劇になるのが通例であった。もとになった舞台劇も、ハミルトン・ディーンの戯曲をアメリカで公演する際、ジョン・L・ボルダストンによって「よりモダンに」改変されている。

舞台劇ではドラキュラは飛行機をチャーターしてトランシルバニアからイギリス・クロイドン空港に来、自ら税関手続きをして、そこからトラックをチャーターしてカーファックスへと渡ってくる。
また腕時計を着けていて、ヘルシングに十字架で追い込まれた時に日の出の時間を確認しながら逃げる演出まであるのだ。 (※2)

当初、映画でのドラキュラ役は、ロン・チャニーの予定だったが、チャニーが若くして急逝、その代役としてコンラート・ファイトやポール・ミュニ等、様々な名優が候補として挙がったが、そこにベラ・ルゴシの名は無かった。ルゴシは、役の獲得のために強烈なアプローチを実行したが、おせっかいが過ぎて、返って製作陣に煙たがられたという。
結果としてルゴシがドラキュラ役になったが、理由としては、「安くいいように使える」というところが大きかったようだ。

2000年にアメリカ国立フィルム登録簿に登録されている。

(※1:『映像学 68』日本映像学会 「葛藤の表出 アメリカのホラー映画研究序説 中野 泰 著」 11頁参照)
(※2:1979年に池袋西武劇場で上演された舞台劇の邦訳台本参照)

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