サイレント期

1895⇒1929
 

カリガリ博士

E382ABE383AAE382ACE383AAE58D9AE5A3AB.jpg「表現主義芸術」というのは形式を無視し、心理・感情を具現化する表現手法である。そのため「快活・爽快」とは無縁になりがちで、混沌としているものだ。この作品も多分に漏れず、実に陰鬱で重苦しい。「カリガリ博士」の持つゴツゴツとしたタッチは以後のドイツ映画のカラーを決定付けたようにも思う。また、映画というものは、制作費を含めた「環境」が顕著に表れるもの。当時席巻していた一大ムーブメントである「ドイツ表現主義」のクリエイターが集結したならば、無意識のうちに作品に「世相」が表れたことであろう。つまり「カリガリ博士」は「ドイツ表現主義映画」である以前に「ヴァイマル憲法下の混沌としたドイツそのもの」であった。

その昔は、ヒトラーの出現=ナチの台頭 を予言した、などということがまことしやかに言われたが、現在では否定されている。製作された時点でヒトラーは、何ら影響力の無いただの兵隊であった。また「政治的圧力によって内容が改変され、プロローグとエピローグが付け加えられたことで本来の主旨が骨抜きにされた」とも言われたが、これも現在では信憑性が薄い。どの道、この点に関してはいくつかの説があり、はっきりしない。プロローグとエピローグが制作上の意見の相違で後から付け加えられたのは確かなようだが、奇しくもこれが映像の「回想技法」の始まりとなる。

「1919年制作」と表記されることが多いが、撮影が1919年12月にクランクインしており、翌年1月にクランクアップ。本国での公開は20年2月で、以降主に20年から21年を中心に世界各国で公開されている。日本での公開は21年5月14日という。
表記の仕方は「1920年」が妥当。ちなみにNHK BS2『熱中夜話」』の「B級映画特集」では「1921年」という表記だった。

近年の研究で横浜オデオン座で1921年(大正10年)4月23日に、『眠り男』として封切されていることが判明している。

カリガリ博士を演じたヴェルナー・クラウスは、演じた時点で35歳の若さだった。1922年の「オセロー」ではイアーゴーを演じており、1926年の「プラーグの大学生」では悪魔スカピネリである。「悪魔的」な悪役を得意とした役者だが、反面、「ブルグ劇場」での恋する大俳優ミッテラーなど、チャーミングな役もこなす名優である。

極地征服

 映画の父 ジョルジュ・メリエス率いるスター・フィルム最後の作品。この時期、アメリカ人ロバート・ピアリーによる北極点到達、ノルウェーのロアール・アムンゼン、イギリスのロバート・スコットの南極点到達と、「極地探検」流行りであった。それに便乗した形での映画化であったが、すでにメリエスの作風は観客に飽きられており、また、極地探検のドキュメンタリー映像が公開されたこともあって映画のチープさに拍車がかかり、興行的に失敗に終わったという。しかしながら映画自体はメリエスの究極のパラレルワールドとも言える出来。

 本作の見せ場は何と言ってもクライマックスの「雪の巨人」である。これは頭だけで2メートルもの高さがあり、目、耳、口、手が動く大がかりなギミックがあった。顔のギミックを動かすために中にスタッフが二人入っていたという。

 各国の科学者の中に侍姿の日本人が参加しているのはちょっと嬉しい。

月世界旅行

SF・ファンタジー映画の父、ジョルジュ・メリエスの代表作ともいえる本作。H・G・ウェルズの「月世界最初の人間」とジュール・ヴェルヌの「月世界へ行く」「月世界一周」などを原典にメリエス自信が、脚本・監督・出演を勤める。
世界最初のSF・ファンタジー映画で、複数のシーンと物語が存在する、当時としては革新的な作品だった。ラストに帰還祝いのパレードのシーンが長らく紛失されており、存在しないと思われていたが、2002年に発見され、「完全版」が2003年にイタリアのポルデノーネ無声映画祭で上映された。 
砲弾が目に突き刺さった泣き顔の月のビジュアルはあまりにも有名で、SF映画を語る上では外せないキャラクター(?)となった。
映像技術がつたない時代ながら、描き割り・ハリボテのセットを駆使したギミックがとにかく楽しい。乗組員の名は、バルヴァンフイユ教授以下、ノストラダムス、アルコフリバス、オメガ、ミクロメガス、パラファラガムスとなっている。16コマ/秒、14分の作品。

【レストアバージョン】(2012/02/11)

moon_2012.jpg この作品にはフィルムに直接着色されたカラーバージョンが存在する。これは1993年にスペインで発見され、1999年より修復作業が開始された。しかし、そのフィルムの状態があまりにも酷かったために、作業は難航。資金面や技術面などの環境が整い、再映に向けて本格的な修復作業が始まったのが2010年になってからのこと。さらに、関連財団の依頼により、新しくサウンドトラックがフランスのポップ・サウンド・ユニット「エール」によって作られた。

 このバージョンは全編16分である。
(出典:アルバム「エール『月世界旅行』」インストより)

メトロポリス

【バージョンについて】

[プレミア版(本国初回公開版)]
 1925年5月22日から1926年10月30日まで行われ、ポスト・プロダクションを経た後、完成したメトロポリスが1927年1月10日にベルリンのウーファパラストで盛大に公開される。
フィルムの長さ 4,189m

[パラマウント版(アメリカ公開版)]
 1927年12月、プレミア版とほぼ同じ内容のネガが、アメリカに輸出された。配給を担当するパラマウント社では幹部試写会が行われたが、結果として、「スター不在で物語の筋を追う事が困難な大作映画をこのままの長さでは上映できない」と判断し、十二巻のフィルムを通常の長さである七巻にまで刈り込むことを決定した。
 物語の辻つまを合わせ、英語字幕を書きなおすために、劇作家チャニング・ポロックが起用された。
 1927年3月7日、ニューヨークにおいて公開された。
フィルムの長さ 約3,100m

[短縮版(ドイツ再上映版)]
 ドイツ国内で上映された「プレミア版」の成績不振を受け、ウーファは公開を一旦打ち切り、フィルムを大幅に短縮し、1927年8月26日に再度公開した。内容はパラマウント版に近い形だったという。
フィルムの長さ 3,241m

[他海外輸出版]
 「メトロポリス」の撮影は、海外輸出を考慮に入れ、効率よくプリントを大量生産するために同時に三台のカメラで撮影された。すなわち、角度の違う等価値のものが3種類存在することになる。プリントは「本国公開用」「アメリカ輸出用」「他外国輸出用」と分けられた。
 公開年度の時点で、すでに大きく3種類のネガが存在していたことになる。以後、「メトロポリス」は複製が重ねられ、フィルムが散逸し、数え切れないほどのバージョンが存在することになる。

[MoMA版]
 1934年3月の時点でドイツ国内で、インタータイトル(字幕)を除いた9巻分(2,589m)のネガがウーファによって保存されていた。1936年、ベルリン・オリンピック開催中にドイツ映画のフィルム収集に訪れていたニューヨーク近代美術館(MoMA)のアイリス・バリーが、ウーファから「メトロポリス」のナイトレイト・プリントをもらいうける。後にこのプリントは、ドイツ語のインタータイトルを忠実に訳した英語のタイトルがつけられた。
 後に再プリントを経ながら保存され、最終的に九巻2,532m(タイトル含む)の長さになり、1986年にミュンヒェン映画博物館に返還されている。

[返還パラマウント版]
 
「パラマウント版」は1936年以降、パラマウントとウーファとのライセンス契約満期によってドイツに返還され、第二次世界大戦後に東ドイツ国立フィルム・アーカイヴに引き継がれた。その時の長さは八巻2,337m。
 尚、パラマウント版返還の際には、その元となったアメリカ輸出用オリジナル・ネガを含む断片(十巻1,952m)も返還されていたのであるが、これは終戦時にソ連軍が戦利品として持ち帰り、戦後長い間ゴスフィルモフォンドで保管されることになる。この断片が東ドイツ国立フィルムアーカイヴに収蔵されるのは1971年になってからで、現在はドイツのブンデス・アルヒーフ・フィルム・アーカイヴに受け継がれている。

[ロンドン 国立映画テレヴィ・アーカイヴ版]
2種類のプリントが存在するが、そのうち1本は「MoMA版」にも「返還パラマウント版」にも存在しないシーンやインタータイトルが残存。
※2002年の修復素材

[オーストラリア公開版]
ジョージ・イーストマン・ハウス所蔵。着色されている。
※2002年の修復素材

[イタリア版]
ミラノのイタリア映画博物館所蔵。イタリア語字幕。
※2002年の修復素材

[アルゼンチン版]
2009年7月にブエノスアイレスで発見された、監督フリッツ・ラング編集による16mmフィルム。
※2010年の修復素材

[ジョルジオ・モロダー版]
 1984年にジョルジオ・モロダーのプロデュースで再編集、再構成され、公開された。
欠損部分に関しては、スチールなどの静止画加工で補った。上映時間90分。


(参考資料)「映像学 68 2002」 日本映像学界

【ロボットについて】
 ファンの間では「ロボット・マリア」、「マリア」と呼称されているが、ストーリー上、発明家ロトワングは、かつて熱愛し、フレダーセンに奪い取られた女性「ヘル」を模して、このロボットを作った。
 この撮影用スーツは造型家 ワルター・シュルツ・ミッテンドルフの手によるもの。材質は木製樹脂の削りだしで、銀色の塗装が施されたという。映像で見る限り金属の叩き出しに見え、当初ミッテンドルフも金属材質を検討したが、材料を金属にしてしまうと、板金工を呼ぶ必要があり、自分の仕事がなくなってしまうのでやめた、という本当か冗談かわからない記録が残っている。尚、撮影用スーツは第二次世界大戦の戦火に消えたという。
 
 ロボットの背面は(今のところ)本編中では映らず、その造形は謎となっている。この件に関しては、どの文献にも記載されていないらしい。一説では「背面は作られていない」という話もある。これは、当時の撮影所の強力な照明と、それによるスタジオ内の異常な温度の上昇を考慮に入れると、スーツの素材を考えても、スーツアクター(ブリギッテ・ヘルム本人)に害が及ぶことは想像に難くなく、それを回避するために「背中が開いている状態」である可能性は高い、という推測である。また、ロボットが椅子に座るシーンもあることから、スーツ臀部にも着席させる措置が取られていた可能性もある。大腿部間接のウイングが背後まで造型されていたならば、アクターは椅子に座ることはできない。

恐竜とミッシングリンク

 この作品は、ウィリス・H・オブライエンがカリフォルニア時代に製作・公開されたオブライエンの初期作品群の一本。オブライエンは16年にニューヨークに居を移し、エジソン社に移り、その際にこれらの作品群がエジソン社のロゴが追加プリントされ、再公開されている、という事情があるため、正確な製作年度は確定できない、という。
 オブライエンの処女作であり、最古のストップモーション・アニメ映画であるが、この時点でかなり複雑な動きが実現されている。
日の浅い映画ビジネスの世界では、さぞかし大きな可能性を示唆した事と思う。ことに、ワイルド・ウィリーの表情豊かな感情表現には目を見張るものがあり、そのまま観流すと「ワイルド・ウィリーが主人公の作品」にも取れる。
 これがストップモーションアニメの祖であるとするならば、世界で初めて銀幕に登場した(3Dの)恐竜は首長竜(=ブロントサウルス)ということになる。オブライエンの同時代の短編には首長竜が好んで使われたようだ。1917年の「R.F.D.10,000 B.C.」では、ブロンドサウルスに荷車を付けた郵便屋が登場する。25年の「ロストワールド」でも、クライマックスをブロントサウルスにロンドンを破壊させる等、なぜか「首長竜」に対する拘りが見てとられる。

「失われた映画」として知られていた一本。製作された当時は、映画は「使い捨てのコンテンツ」に過ぎず、公開済みのフィルムの管理はずさんだったようだ。1918年のエジソン社の閉鎖によって、同社の映画群のほとんどが行方不明となった。この「フランケンシュタイン」も例外ではなかった。
1963年にエジソンスタジオのカタログ「KINETOGRAM」が発見され、「怪物」のビジュアルと内容の詳細が明らかになった。プリント自体は1950年代にウィスコンシン州の映画コレクター、アロイス・F・デットラフ氏が手に入れた、とされるが、その出所がどこなのかは不明。デットラフ氏はそのフィルムがどれだけの価値があるのか1970年代に半ばまで知らなかったという。70年代後半、デットラフ氏はこのフィルムを保管するため、35ミリフィルムでコピーを作った。コピーの製作は世界最古のフィルム・アーカイヴ、「ジョージ・イーストマンハウス」による。現在では輸入DVDなどにより、エンドユーザーにも手軽に視聴可能になった。

世界初のフランケンシュタイン映画で、現在確認できるフィルムは正味10分少々(記録では16分)。その中で創造物製造のシーンが長く割かれているが、原作のポイントはほとんど抑えられている。
オリジナルが確認できないので何ともいえないが、少なくとも劇中にフランケンシュタインが、エリザベスに当てた手紙が映し出される。「実験が成功した暁には結婚して欲しい」というプロポーズの手紙である。それによって一気に映画の内容を観客に説明する、という大胆な方法がとられている。そのためか、短い上演時間ながらも非常に密度の濃い内容になっている。

チャールズ・オーグル扮する「創造物」はズタボロでグロテスクな様相。カーロフのモンスターが誕生するより20年も前であるが、インパクトは絶大で、寝室に現れる気味の悪さや、クライマックスの暴れっぷりもなかなかのものである。

クリスマスキャロル

スクルージにこき使われる、ボブ・クラチットを「フランケンシュタイン(1910)」のチャールズ・オーグルが扮している。「フランケンシュタイン」もそうだが、原作の全てのポイントを抑えている。さすがに駆け足な展開は否めないが、大体のあらすじは描けており、原作に忠実といえば忠実である。

drakula_halala1a.jpg内容には諸説あり「自分を吸血鬼と思いこんでいる音楽教師の物語」であるとか「ドラキュラだと思っている男のいる精神病院を訪れた女性の恐怖を描いたもの」など、内容が報告によって違う。どの道、ロストフィルムであるから内容の詳細は不明である。が、最近の研究で、ブラム・ストーカーの原作とは、なんら関係が無いことがわかっている。
とはいっても「ドラキュラ」が初めて映画で扱われた作品だ。
公開が1923年4月14日であることが伝えられている。ハンガリー国内のみの公開だったという。
ドラキュラのスペルも「DRACULA」ではなく「DRAKULA」だ。

最近はこの作品のデータがそこそこ詳しく海外のサイトで紹介されているが、最も詳しいのがハンガリー語のため、詳細を知るにはちょっと・・・。
ハンガリーといえば、ベラ・ルゴシの故郷である。ひょっとしたら、ルゴシはこの作品を観ているかもしれない・・・という冗談が、本国のサイトで紹介されていた。