1940年代

1940⇒1949
 

 RKOが『キャットピープル』(1942)に続いて制作した、 ヴァル・ニュートンのプロデュースによるホラー映画の第二弾。舞台をブードゥ教の本場である西インド諸島に置き、ブードゥの強大な力とゾンビ伝説を絡めながら、主体となるホランド家の愛憎劇を巧みに描いていく。ホランド一家が抱えていた慢性的な問題は看護師ベッツィがやって来ることによって一気に解消されるわけだが、妻と弟の不貞で人間不信に陥った農園主ポールが、危険を冒してまでゾンビと化したジェシカの治療を試みるベッツィに心打たれ、やがてそれが恋心に変わっていく様が丁寧に描かれており、ただのホラー映画ではなく、傑出したラブ・ロマンスであることも特筆すべきところ。また、恐怖演出も地味ながらも秀逸で、リズミカルなドラミングをバックに展開されるブードゥのダンスや、唯一登場する賦役ゾンビのカラフォーの存在感など、この上なく不気味なエッセンスが散りばめられている。ジョージ・A・ロメロの『Night of the Living Dead』(1968)以前のゾンビ映画の最高峰とも言われる傑作。

 ユニバーサルのミイラ男映画は『ミイラ再生』(1932)から始まり、本作は2作目になるが、初作の続編ではなく、セミ・リメイクである。ミイラの名前はイム・ホ・テップからカリスに、古代エジプトの王女の名もアンケスナモンからアナンカに変更された。『ミイラ再生』ではミイラ男は己の意志で行動するが、このリメイクではエジプトの高僧から命を受けた神官の指示に従属する。

 満月の夜ごとに謎の植物ターナの葉3枚を煎じた茶をカリスに飲ませることでその最低限の生命活動は維持され、アナンカの墓を暴くものあらば、毎晩9枚のターナの葉を煎じて飲ませることでカリスは動き出し、墓荒らしを攻撃する。

という約束事に沿って、探検隊とアナンカ姫の墓守との攻防の物語が展開する。このグリフィン・ジェイとマックスウェル・シェーンによる脚本は以後のミイラ男映画の物語のセオリーとなる。

 スティーブ・バニングのキャラクターは世界を股にかけた考古学者で活動的なヒーローである。悪漢アンドヘブがその名を耳にしているなど、なにかと有名なようで、その点はインディ・ジョーンズの先駆とも言えるのではないだろうか?

 ミイラ男に扮するのは1940年代の連続活劇『キャプテン・マーベル』で人気を博したトム・タイラー。タイラーはそれまで低予算の西部劇映画で活躍していた。彼がカリス役に配役されたのは、タイラーの鋭い顔つきと暗い目つきがカーロフに似ており、本編中に『ミイラ再生』のカーロフが登場する回想シーンを挿入する都合があったので、その整合性を考えての判断だったといわれている。

 今では幽霊屋敷をテーマにしたホラー映画は数多いが、本作は「邸に獲りついた幽霊が心霊現象を起こす怪談」をシリアスに描いた先駆的な作品。それまでアメリカ映画では「幽霊」はコメディ映画で扱われることが通例であった。本作はホラー映画としてよりも、その幽霊の正体が何者なのか?というミステリーとしての向きが強い。英国から招かれたルイス・アレンは当初幽霊を登場させるつもりはなかったが、最終的にパラマウントの判断で幽霊の存在を強調するため、特殊効果による幽霊の描写を加えることになった。英国では1940年代は怪奇映画への検閲が厳しい時代で、その描写はカットされた状態で上映されたが、批評家筋からはその暗喩的な演出は歓迎されたという。ともあれ、本作は以後の「幽霊屋敷物」のステータスを確立した。

 映画の中ではロデリックがステラの前で弾くピアノの即興曲は「星影のステラ」である。ヴィクター・ヤングの有名なジャズ・ナンバー「星影のステラ」は本作のために作られたもの。

 主演のレイ・ミランドはこの作品の出演時点ですでに大スターの一人で、彼はこの翌年にビリー・ワイルダー監督作品『失われた週末』(1945)でアカデミー賞主演男優賞を受賞することになる。ビーチ中佐に扮するは 映画創世記以来、ハリウッドの著名な映画人の一人であるドナルド・クリスプ。TVシリーズの『バットマン』でアルフレッドを演じたアラン・ネイピアがスコット医師に扮する。ヒロインのステラはジョン・ウェインの『拳銃無宿』(1947)で日本でも人気を博したゲイル・ラッセル。制作は『失われた週末』(1945)、『サンセット大通り』(1950)などでビリー・ワイルダーとのコンビで知られるチャールズ・ブラケット。スタッフ、キャストともに超一流が顔を揃えた作品である。

※アメリカン ホラーフィルム ベストコレクション DVD BOX Vol.1 発売元:ブロードウェイ 解説書 著:柳下 毅一郎 参照

ユニバーサルのシリーズ第4作目。
前作で硫黄孔に落とされたモンスターであったが、ほとんど無傷で生きていた。

モンスターが雷鳴とどろく荒野を、落雷を求めてうろつく場面がある。ついにモンスターに落雷し、それによってエネルギーが逐電される。この時のイゴールの「お前の父親はフランケンシュタイン!、母親は雷だ!」という台詞は実に印象的だ。ところで、このモンスター、「フランケンシュタインの花嫁」では、食料と酒を求めて森をさまよう様子が見られるので、栄養の摂取は人間と変わらないものだったのだが、本作よりエネルギー源が明確に「電気」となった。

モンスター役がボリス・カーロフからロン・チャニー.Jrに交代した。ロン・チャニー.Jrは出世作となる「狼男の殺人(1941)」の撮影中に、本作にキャスティングされたのだそうだ。

チャニーは重厚で時間のかかるメイクにかなりストレスを感じていたそうで、メイクアップ師のジャック・P・ピアースとも反りが合わなかったと伝えられている。

脚本家エリック・テイラーの書いた初稿はあまりにも暗かったために検討が重ねられた。初稿では前作の主役ウォルフが登場し、イゴールと、せむしのテオドールが登場することになっていた。イゴールは、モンスターや、自らと同じく、社会からつまはじきにされた境遇のフリークス達を従えて暴動を計画する、という設定だったという。
最終的にはエリック・テイラーの脚本の骨子を残しつつ、ベテラン脚本家のスコット・ダーリングが大幅な変更を施した。

ボリス・カーロフは、この時すでに舞台劇「毒薬と老嬢」などのヒットに恵まれ、舞台活動に移行しており、映画への興味は失せていたという。

「魔人ドラキュラ(1931)」で、レンフィールドを演じたドワイト・フライが村人の一人として出演しているが、厳密にいうと彼は本作では2役である。もう一つは回想シーンで流用されている初作のフリッツである。

夜の悪魔

 怪奇色、というよりは愛憎劇の向きが強い。
 ヒロインのキャサリンは完全に「悪女」であり、ドラキュラに血を吸わせて自分が不死者となり、恋人であるフランクの血を吸ってフランクを不死者にし、「永久の愛」を成就させようとする。当然、役目を果たしたドラキュラは始末する、という念の入った「ドラキュラ暗殺計画」を企てるのである。また、フランクもそれを了承してしまう。
 何と言っていいか・・・吸血鬼を倒す側がグレーな人たちで、敵役の吸血鬼が結果として犠牲者というポジションになる。

 ドラキュラは祖国ハンガリーが荒れ果てたために、若さみなぎるアメリカに身を移し、愛する人と幸せに暮らすために渡米してきたのだが、間男した上に女にだまされ、その女のイロに滅ぼされる、というなんとも情けないメロドラマである。
 普通のドラマならば、フランクとキャサリンは計画的な殺人を犯す「犯罪者」である。マクベス夫妻のようなものであるが、ターゲットが吸血鬼だったので「まあいいか」という空気が流れる。一人まともな保安官が混乱するばかり。

 「吸血鬼」という存在の扱いがひどく、「忌むべき者」という要素がまったく無い。逆にその能力を利用して「幸せになろう」という、吸血鬼映画の暴挙である。

夢の中の恐怖

dead_of_night.jpgのサムネール画像 英国を代表する4人の作家の原作による怪談を、英国を代表する4人の監督が演出したホラー・アンソロジー。
マーティン・スコセッシが選ぶ「映画史上最も怖いホラー映画11本」"11 Scariest Horror Movies of All Time"の中の一本としてランキングされている。
その後のアミカス社のオムニバス・ホラーに多大な影響を与えた作品である。

 1940年代にはイギリスにホラー映画は規制によりほとんど存在していなかった。その中で本作が作られたのは、快挙ともいえる出来事だったという。
「おそらくホラー映画とはみなされなかったのだろう(石田 一)」

 初期のハマー・ホラーの常連だったマイルス・モーリソンが出演している。

青ひげ

はじめに断っておくが、ストーリーは謎解きの要素が押し出されたような書き方になったが、犯人は本編早々にわかる。ストーリーをそのまま書いていたら大変な長文になってしまうので割愛した。「青ひげ」と呼ばれる連続殺人鬼と、それを追う警察との攻防戦の物語である。60分少々の短い作品であるが、脚本は実に緻密で、事件発生から解決までの複線が、ところ狭しと盛り込まれている。犯人は芸術家のガストン・モレル。目をつけた女性を画のモデルとして口説くが、肖像画を描いて、飽きると絞殺してセーヌ河に捨てる、という偏執狂の殺人鬼である。この殺人犯には、芸術家として悲しい過去があり、それが元で殺人に走ったが、実のところ殺人が癖になっていた。
人当たりの良い、二枚目のシリアル・キラーをジョン・キャラディンが器用に演じている。
残酷描写こそないものの、時代を考えるとかなり衝撃的なものだったのではないだろうか?「殺人の暗示」が観客の想像力を掻き立てる。描き方がいちいち陰惨で、後味が悪いことこの上ない。また、事件解決なるも大団円とはいかず、この手のサスペンス物には珍しく、多くの犠牲者を出すことも特筆すべきだろう。

Bluebeard_03.jpg監督はエドガー・G・ウルマー。「黒猫(1934)」「驚異の透明人間(1960)」などの監督である。オーストリア出身で「巨人ゴーレム(1920)」「メトロポリス(1926)」「サンライズ(1927)」「M(1931)」などのアートディレクターでもある。

この作品はPRC(Producers Releasing Corporation)の作品である。ベラ・ルゴシ主演の「DEVIL BAT」など、低予算のスリラー映画を得意とした会社である。