1970年代

1970⇒1979
 

デビルズ・ゾーン

 若者たちがバカンスの途中で殺人鬼に追われる、というプロットの作品は多々あるが、本作でちょいと趣向が違うのは、その殺人鬼が「本物の魔法使い」であることだ。映画の性質上「超能力者」というのが正しいのだろうが、その力は完全に我々の知る「超能力」を逸脱しており、ほとんど「魔法」である。

 床に転がっている人形の首がゲタゲタ笑いだす、数多のマネキンがガタガタ動き出し、キャーと叫び、その顔はマリオネットのそれかと思えば、人間と寸分違わない姿で人を騙す。それを操る人形使いを「超能力者」と呼ぶにはあまりにも現象が荒唐無稽である。

 スローソンは凡庸な田舎のオヤジの風体だが、その実態は「超能力者」というよりは、悪魔や魔法使いといった「怪物」であった。

 また、スローソンがそうなってしまったのには、「弟と愛妻の不貞を目撃したことから二人を殺し、それでも妻に未練があったので妻のマネキンを作った」という、「黒猫(1935)」などの古典怪奇映画に時々見られる古風な理由があった。

 物語の下敷きは「悪魔のいけにえ」そのもので、スローソン自身も不気味な仮面を被って暗躍するところなどはレザー・フェイスのパクリであるが、やはりこう、マネキン軍団のインパクトが逸脱しており、(少なくとも筆者には)そんなパクリなどどうでもよくなってくるのだ。 

特撮はおそらく製作当時の目で見ても単純なものだったのだろうが、その稚拙さを逆手に取り、様々な工夫も功を奏して、不気味さを醸しだしている。閉店後の深夜のデパートでマネキンが動き出す、などという都市伝説的なシチュエーションを頭に思い浮かべたことのある人も多いと思うが、それを具現化してしまったのが本作である。

 監督によると、殺人鬼役のチャック・コナーズはそれまで定着していた「正義の味方のイメージ」からの脱却を図っていて、本作のような作品への出演を望んており、ホラー映画のスターになりたがっていた、という。

 仮面を被った怪人があの独特の大きなアゴで丸わかりなのはご愛敬。

 若者の1人を演じているのが、TVシリーズ「チャーリーズ・エンジェル」で人気を博した、売れる前のタニヤ・ロバーツである。

ヘルハウス

リチャード・マシスン原作の長編小説「HELL HOUSE」の映画化。

legend_hell_house.jpg心霊を「有機体」とし、あくまで実存するものとして描いているところにこの作品の面白さがある。
このベラスコ邸は、その家の主ベラスコの怨霊に支配されている屋敷であり、その秘密を探ろうと訪れた者はことごとく殺されるか、気が狂うか、五体満足では帰れない、恐ろしい屋敷だ。

このベラスコ氏は、「吠える巨人」の異名を持つ、身長2メートルの大男と言われている。しかし、実は短足の小男であった。
そのコンプレックスを誰にも知られたくない。よってベラスコ邸は、その秘密を徹底的に守る要塞と化していた。 


実は、この秘密がこの映画の大オチなのだが、どうももう少しひねりがあるようだ。
この映画の面白いところの一つは、同時期の「エクソシスト(1973)」が、「存在が不明な悪霊」を聖職者が悪魔払い(暗示)することに対して、「実存的な悪霊」を科学的に解明しつつ、機械の力で除霊するところである。この機械は実際「除霊」する機能がある。

一応の除霊に成功したバレット博士は除霊した後に命を落とす。除霊しきれていなかったのだ。ベラスコの方が一枚上手で、ベラスコの霊の拠点となる部屋は鉛で覆われており、この機械の効力が及ばないのだ。 


ところで話はちょいと飛ぶが、ベラスコは自分の足が短いことを気に病んで、両足を切断し、長い義足をつけていた。

では、これを本当に未来永劫、隠ぺいしたかったのだろうか?

実はそうではない。映画の冒頭にベラスコが吹きこんだレコードが出てくる。

「お探しの物はこの屋敷にある。」

探せと言うからには、探させる意図がある。 ここから「ゲーム」が始まる。ベラスコは人に危害を加える時、必ずヒントを残す。それが「足」だった。つまり巨人と言われたベラスコは、実は自分がチビだったことを本当に「コンプレックス」に思っていたのではなく、それを謎の「答え」にした。

最後に謎を解いたフィッシャーは

「ベラスコは天才だったのかもしれない。除霊する機械が出てくることを予見したのだから」という。

でもこれもある意味違う。

ベラスコの立場になってみると、あれだけ厳重に防衛した謎を解ける者は当分出てこないはずで、謎が解かれる前に(実存的な)霊魂を排除する機械が開発される可能性を考えると、ゲームは未完のまま終わってしまう。 だからそれを視野に入れた仕掛けを作るのは理にかなっている。

これらはあくまで私的な推測ではあるが・・・。

このゲームの最後の「呪文」は「お前は本当はチビだろ!」であり、ベラスコにとってこれは「誰にも知られたくない秘密」だったのではなく、ベラスコが用意した「解答」に過ぎなかったのである。 謎が解けた後は、除霊されてもかまわない。だから「チビ」とののしられた時に部屋のドアが開いたのである。

部屋にあったベラスコの死体は、解答の証明にどうしても必要だった。

本当に身長の低さを知られたくないのならば、義足をつけた自分の死体を保存しておくはずが無い。(私だったら火をつけて屋敷もろとも消滅させるわい。)

で、このゲームは、間違った解答を出した者は命を落とすか大けがを負うことになっている。

霊媒のフロレンスは勘違いして命を落とした。
バレット博士はしょっぱなから方向性を違えていたので殺された。

助かったのは、謎を解いたフィッシャーと、バレット博士の奥さん。

フィッシャーは用心しながら事件の根幹を探っていた。奥さんは恐らく、ベラスコ自身の霊媒で謎解きの撹乱役、いわばゲームの仕掛け人でベラスコの協力者である。

こう考えると、ゲームに参加していたのは3人で、謎の解明に向かっていたのはフィッシャー1人であり、フロレンスはご都合主義で簡単な解答に収まり、バレット博士はゲーム自体を壊そうとし、失敗したのである。

私はこの映画をこう解釈したのだが・・・。

ところで、この映画の監督は、ハマーで数本監督作品を残したジョン・ハフ。ハマーのスタッフが技術指導したとも言われている。

些細なことであるが、この映画には「吸血鬼ドラキュラ(1958)」のオープニングで登場した鷲の彫刻とそっくりな物が出てくる。どうも見たところ、同じ物のようだ。新造したとしても似すぎているのである。「使いまわし」と考えた方が自然だ。

ベラスコの死体役がマイケル・ガウで、しかもノン・クレジットの出演。

ハマーファンは、ベラスコの死体が出てきた時にひっくり返る仕掛けになっている。

非常に曲者な作品なのだ。


ウエストワールド

westworld01.jpg この物語は「ジュラシックパーク」と同じく、「テーマパークの事故」がテーマとなっている。共にクライトン原作という点では、この共通項はとても興味深い。
「ウエストワールド」と「ジュラシックパーク」の決定的な違いは、前者がテーマパークのオープン中、後者はオープン前の出来事である、ということだ。

 「ウエストワールド」は、マイケル・クライトン本人の演出によるものだが、この時代のクライトンは、純粋な「作家」であり、本作もまた。小説風な作りである。
 物語として考えた時に、「客を巻き込んだ、開店中の出来事」とした方が当然話は面白い。
 
 対して「ジュラシックパーク」はその面白さを排除した「開店前」の設定。当然のことながら、小説として書かれるならば、ジュラシックパークもまた、パーク開店中の出来事になるのが自然の流れである。しかし、それが無かったのは、「ジュラシックパーク」の小説自体が「映画化前提」で書かれたからではないだろうか?映画化の際、客をパニックに陥れることは製作費の増幅に繋がる。そこを、映画化しやすいようにクライトンは「ジュラシックパーク」を書いたのではないだろうか?

 いかに科学が発達した世界の物語とはいえ、その設定に少々無理があるところは否めないが、作家性が前面に出ている作りとするならば、多少の無理はいたしかたないところと思う。
 
 デロスのロボットの動きは全てコントロールセンターの人的操作によって成り立っており、基本的に客のプライバシーは無いことになる。そこに来て、このデロスの売りが「置き屋」まがいの風俗的性質であったりする。・・・個人的にいろいろ考えてしまう。
 デロスは、「大人のディズニーランド」であり、大人の夢をかなえるテーマパークなのだ。
 
 「荒野の七人」のクリスの再来である、ユル・ブリンナーのガンマン・ロボの存在感は圧倒的。またこのガンマンは、「ターミネーター」のプロトタイプともいえる。

 主人公のリチャード・ベンジャミンは、日本では「ドラキュラ都へ行く(1979)」での執拗なヘルシング博士の孫役で知られる。80年代に入ってからは、「マネー・ピット(1986)」「花嫁はエイリアン(1988)」をはじめとするコメディ映画を中心に監督としても頭角を現す。

 修理人役として登場するスティーブ・フランケンは、テレビドラマ「奥さまは魔女」ではお馴染みの顔。目をキョロっとさせたボケ役で笑いを誘うが、本作では、シリアスな役どころ。砂漠でロボットの襲撃に怯えるも、あえなく銃弾に倒れてしまう。

悪魔のはらわた

flesh_for_frankenstein_02.jpg本作品はもともと3D映画として公開された。そのため、随所に立体的な演出が施されている。

フランケンシュタイン男爵は内臓嗜好、屍姦嗜好、実姉を妻とし、子供も二人いる、という異常性愛者という設定。助手のオットーは、粗雑な役立たずの変態。姉のカトリンはセックスマニア。子供は残酷で鉄面皮。主人公のニコラスは性欲おびただしく、カトリンと関係を持っている、と、まともな人間が(主要人物では)全く出てこない作品である。

サシャは「ホモ」という定説であるが、本編ではその設定は登場せず、「僧侶志望で女性に興味が無い男」という設定である。

翌年製作された「処女の生血(1974)」と出演者、セットを共有しているという。

Count Dracula

前・後編の二部に分かれているテレビドラマである。
多少の設定変更はあるが、原作に忠実に描かれている。怪奇小説である原作をなぞる様に、時間軸も直線的に進行する。全体的に上品に、かつ抑制を効かせていて、どっしりとした雰囲気が作品を引き締めている。
 
ルイ・ジュールダンのドラキュラは、スチールでは「ドラキュラ」のイメージにそぐわないが、なかなかどうして、ドラマ中では完ぺきに成立しており、他の映画を含めても上位に位置する風格。ジュールダン自身、『鉄面皮』の役者なので、「無敵」に見えるのだ。
テレビドラマであるためか、吸血シーンも「恐怖演出」の様式美がとられていないのだが、逆にエロティックさを助長してしまっている感がある。「吸血行為」が性交の延長線上の行為のようだ。また、外でルーシーを襲うシーンは、後の「ブラム・ストーカーズ・ドラキュラ」に応用されている。
 
ルーシーの容態が悪化してから死ぬまでは「エクソシスト」の影響が見られる。ベッドの上で牙をむき出しながら舌をペロペロやるところなど、ちょっと見物だ。前述の通り、随所に「ブラム・ストーカーズ・ドラキュラ」が影響されたようなシーンがあるが、私は映画に比べて本作の方が雰囲気、サスペンス色、共に上かと思う。

ヘルシング教授がフランク・フィンレーである。この陰惨なドラマの中では少々快活だ。ドラキュラのキャラクターとは完全に正反対であり、視聴者に対して安心感を醸し出していたのではないだろうか?

ドラキュラ 

1977年にニューヨークのマーチン・ベック・シアターで上演された舞台劇「ドラキュラ」のヒットを受けて、舞台でドラキュラ伯爵を演じた、フランク・ランジェラを招いての映画化。フランク・ランジェラは、この芝居でトニー賞にノミネートされた。監督は「サタデー・ナイト・フィーバー」、「ブルーサンダ―」のジョン・バダム。音楽はジョン・ウィリアムス。ドラキュラを迎え撃つヘルシング教授が、ピーター・カッシングの師匠にあたるローレンス・オリヴィエ、相棒のセワード博士がドナルド・プレザンス。

戦前のユニバーサル製怪奇映画「魔人ドラキュラ(1931)」のリメイクであり、同社の正統派ドラキュラ映画としては実に58年ぶりの映画化である。
ユニバーサル映画のドラキュラは31年の映画化の際、メイクのジャック・ピアースが原作通りのメイクを検討しており、牙もつける予定だったが、ドラキュラ役のベラ・ルゴシがそれを拒否したため、以来、同社のドラキュラ(及び吸血鬼)役者は「牙を着けない」という暗黙のセオリーがあった。79年版では、ランジェラがこの件に言及し、「牙を着けないことがオリジナル映画ファンへのメッセージ」としている。 本作でも他聞に漏れず、ドラキュラに牙は無いものの、血を吸われ「半吸血鬼」となったルーシーが赤いコンタクトと牙を着けた姿を披露。これが、ユニバーサルで初めて吸血鬼が牙を(そして赤いコンタクトを)着けた事例となった。ちなみに同社のドラキュラが牙を携えたのは、「ヴァン・ヘルシング(2004)」でのリチャード・ロクスバラのドラキュラが初めてであるが、CG処理での牙だった。実際に牙を装着したドラキュラの例は、ユニバーサルでは無い。

ジョナサン・ハーカーがカーファックスから車で移動中、レンフィールドに襲われる。その時、森の中で、一匹のコウモリがジョナサンを見つめているが、このコウモリ、見たところハワイに棲息する「フルーツバット」である。勿論、イギリスには(野生では)いない。そして、ドラキュラが変身するコウモリはチスイコウモリである。この森のフルーツバットがドラキュラなのかどうかは不明だが、皮肉にもフルーツバットの方がランジェラの顔に似ている。

ドナルド・プレザンスは当初、ヴァン・ヘルシング役を依頼されていたが、役柄が「ハロウィン(1978)」のルーミス博士に酷似していたことを理由に辞退。セワード博士役を快諾したという。セワード博士は本作のコメディ・リリーフの役割で、登場シーンは全て「何かを食べている」という約束事がある。その食べ方は汚く、ことに伯爵を招いた晩さん会では、セワードのテーブルの食い散らかしようは惨憺たるものである。セワードは要所要所で「ギャグ」をかましているのだが、相棒のローレンス・オリヴィエの芝居が重厚で立ち過ぎているため、ことごとくギャグが生かされていない。

撮影時、ローレンス・オリヴィエはすでにガンに侵され体調を崩していたとのこと。スタントマンを使うことを泣いて悔しがった、という逸話が残っている。ラストシーンで、ドラキュラに返り打ちに会い、胸に杭を刺される一瞬のシーンは顔が映るが別人である。

ヒロインを演じたケイト・ネリガンは、後年、ジャック・ニコルソン主演の「ウルフ」でニコルソンの妻の役でお目見えした。

レンフィールドを演じているトニー・ヘイガースはロイヤル・シェイクスピア・カンパニー所属というれっきとしたシェイクスピア俳優であり、日本での来日公演にも参加している。筆者の記憶では「テンペスト」のキャリバン役。1997年には舞台「12人の怒れる男」で、ローレンス・オリヴィエ賞にノミネートされている。

79年のドラキュラブームの火付け役の一本で、大作として作られたが、同年製作されたコメディ映画「ドラキュラ都へ行く」の方に脚光が当たり、正統派の本作は影が薄くなった。日本はおろか、本国でも不入りに終わったという。原因はドラキュラ役のフランク・ランジェラである、ともっぱらの評判である。この当時、フランク・ランジェラは舞台、映画に引っ張りだこではあった。舞台ではシャーロック・ホームズ、テレビドラマでは怪傑ゾロを演じた。

 
frank-langella.jpg【舞台劇について】
この舞台劇は、舞台構成の都合上、原作を大きく改編しているが、以後のドラキュラ映画の下敷きになっている「第2の原作」のようなものである。本作はその舞台劇に最も忠実な形で映画化されている。舞台劇は3幕2場の構成で、ドラキュラ城のシークエンスが無く、セワード博士の院長室とカーファックス修道院の納骨堂のみで展開される「室内劇」で、ドラキュラは「招待客」として登場する。ヘルシング教授とドラキュラの対決シーンは、79年版が舞台劇に最も忠実である。
ミーナとルーシーの名前が入れ替わっているのも舞台劇と同じ。 記録では、ランジェラが舞台でドラキュラを演じたのが1977年のことであり、翌年の再演ではジェレミー・ブレット、さらにその翌年はラウル・ジュリアがドラキュラを演じたという。