1970⇒1979

悪魔のワルツ(1971)

"THE MEPHISTO WALTZ"
アメリカ

[Staff]
監督:ポール・ウェンドコス
脚本:ベン・マドー
原作:フレッド・M・スチュワート
撮影:ウィリアム・W・スペンサー
音楽:ジェリー・ゴールドスミス
配給:20世紀FOX

[Cast]
マイルズ・クラーソン・・・アラン・アルダ
ポーラ・クラーソン・・・ジャクリーン・ビセット
ロクサーヌ・デランシー・・・バーバラ・パーキンス
ダンカン・イーライ・・・クルト・ユルゲンス
ビル・デランシー・・・ブラッドフォード・ディルマン
ロジャー・ウェスト医師・・・ウィリアム・ウィンダム
マギー・ウェスト・・・キャスリーン・ウィドーズ
アビー・クラーソン・・・パメリン・ファーディン

[Story]
 不遇のピアニスト、アラン・アルダは音楽雑誌のジャーナリストの観に甘んじていたが、世界的なピアニスト、ダンカン・イーライへのインタビューでダンカンにその腕を見込まれ、ピアニストに再挑戦する。「ラフマニノフの手だ」とアランの手に異様に執着するダンカンにアランの妻ポーラは不安を覚えるが、その心配をよそにアランはダンカンに陶酔していく。実はダンカンは白血病に侵されており、余命いくばくもない身であった。その身の上に同情するアラン夫婦であったが、これが悪夢の始まりだったのである。ダンカンとその娘ロクサーヌは悪魔崇拝者であった。彼らはダンカンの再生を図るため、悪魔の力を借りてダンカンの魂をアランに移し、その肉体を乗っ取ってしまったのである。夫の異変に気付いたアランの妻ポーラは、親切を装ったダンカン父娘の陰謀を暴き、単身悪魔崇拝者との闘いに挑むのである。

[Text]

 都会に潜む悪魔崇拝の蔓延は『ローズマリーの赤ちゃん』(1968)を踏襲したもので、それに似たような内容との声もあるが、これはそうではなく、同作で「都会には悪魔崇拝者が蔓延しているのだ」というラストを迎えたところ、本作ではその事実が常態化した社会の中で起きた一つの事件として描かれているわけで、そういった意味では『ローズマリーの赤ちゃん』と『悪魔のワルツ』は地続きなのである。つまり「舞台が同じ」という解釈に立たなければ『悪魔のワルツ』の真価を見出すことは難しい。
 愛する人が人知れず何者かと入れ替わっている恐怖はまるで『SF・ボディスナッチャー』のプロットだ。本作では、宇宙人ではなく悪魔と契約し、その力を借りることで魂の置換を行う。魂の置換といえば、ハマー・ホラーの『フランケンシュタイン 死美人の復讐』(1967)でのテーマでもあった。しかしこちらは宇宙人でも悪魔でもなく、フランケンシュタイン男爵の「人が死ぬと魂はどこへ行くのだろうか?」という形而上学問題から「魂が物理的事象ならば捕獲することが可能なはず」という仮説を立てた上で編み出した方法によってあくまで外科領域で魂の移植が行われた。
 窮地に陥ったピアニストが己の才能を維持するために悪魔的な方法でそれを成し遂げるいうのは、モーリス・ルナールの長編小説『オルラックの手』を原作とした『芸術と手術』(1924)や『狂恋』(1935)にも通ずるものである。こちらは両手を失ったピアニストが死刑囚の腕を外科移植され、殺人を犯すという物語であった。こう並べたてると『悪魔のワルツ』は過去の映画ですでに使われた材料のツギハギのようにも思えるが、実のところそれらはたいした問題ではない。物語の骨子は、悪魔崇拝の蔓延がすでに常態化している中で、ある日突然、理不尽に夫を奪われた妻が悪魔崇拝者に仕返しをするという復讐劇である。ジャクリーン・ビセット扮する妻ポーラの活躍はまさに"ダイ・ハード"張りの壮絶なもので、その点はアクション映画並だったと言っても過言ではない。ところでなぜポーラは人格が変わってしまったにもかかわらず、そこまで夫に執着したのか?妻の夫への愛は本物であったのだろうか?否、「中身が誰であれ、もう一度あの腕に抱かれたい」、妻はSEX狂でもあったのだった。げに恐ろしきは女の執念なり。

 『ローズマリーの赤ちゃん』に始まった悪魔崇拝者の暗躍を描いた映画ジャンルは、本作の後、大ヒット作『オーメン』(1976)へと継承され、地味ながらも連綿と現代に受け継がれている。

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