ミイラ怪人映画の歴史

tutankhamun.jpgのサムネイル画像【ツタンカーメンの呪い】

 1922年11月4日、イギリスの考古学者ハワード・カーターはエジプトでツタンカーメンの王墓を発見した。3000年の時を経ていながら盗掘も無く、ほぼ完全な形で出土。これは王墓としては極めて珍しいことであり、この発掘のニュースは世界中を驚かせた。しかし、世の人々が最も興味を持ったのは王墓の発掘ではなかった。王墓出土の5カ月後の1923年4月5日、発掘のスポンサーだったカーナヴォン卿が死去したのを皮切りに、発掘に関わった人々が次々に急死する事態が発生した。実際、数名が他界したのだが、関係者の遠縁の死までこじつけで内包されたためにその人数は膨れ上がり、世間では「これは『王家の呪い』ではないか」と噂された。人々が興味の対象にしたのはここだった。
 根拠のない噂が流れる中で呪いの真偽とは関係なく、時の文化人・知識人が「謎の死を遂げた人々の死因は何なのか?」と考察に興じたためにさらに噂に拍車がかかることになり、現在にも受け継がれる一大伝説が出来あがった。これがいわゆる「ツタンカーメンの呪い」である。この伝説で起きた現象は長きに渡る調査によって、現在ではほぼ偶発的なものであることがわかっている。しかし、噂が流れて当分の間は謎は謎のままだった。

 【呪いは映画に】

 cagliostro_movie_poster_boris_karloff_postcard-rd931b873c86d4fc69200fdff023dfce0_vgbaq_8byvr_307.jpg『魔人ドラキュラ』(1931)、『フランケンシュタイン』(1931)で成功を収めていたユニバーサル社のプロデューサー、カール・レムレ.Jrは、この呪いの噂話を基に「エジプトをテーマとした怪奇映画」を企画。レムレ.Jrはストーリー・エディターのリチャード・シャイアーに草案を依頼。シャイアーは18世紀に実在した錬金術師アレッサンドロ・ディ・カリオストロをテーマにした『Cagliostro』という9ページほどのシノプシスを、作家のニナ・ウィルコックス・パットナムと共に書きあげた。これはサンフランシスコを舞台にした、硝酸塩を注射することによって生きながらえている3000歳の魔術師の物語だったそうだ。これを脚本家のジョン・L・ボルダストンが手直しした。ボルダストンは舞台をエジプトに戻し、主人公の名は古代エジプト(第三王朝)に実在した高級神官で、史上初のピラミッド「サッカラ―の階段ピラミッド」の設計者として知られる「イムホテップ」に変更、タイトルも『Imhotep』と改められた。後にタイトルは『The Mummy』に決定。こうした経緯を経て作られたのが『ミイラ再生』(1932)である。主演はボリス・カーロフ、監督はドイツで『カリガリ博士』(1920)や、『ノスフェラトゥ』(1922)、『メトロポリス』(1926)といった無声映画の名作を撮影し、アメリカに亡命してから『魔人ドラキュラ』『フランケンシュタイン』の撮影を担当したカメラマン出身のカール・フロイント。

【ユニバーサル映画の時代】

mummy31.jpgのサムネイル画像 『ミイラ再生』は、古代エジプトのアンケセナーモン姫に横恋慕した神官イムホテップが姫の死に直面し、魔術で姫を復活させようとした咎で生きながらミイラにされ、現世に蘇ってその恋を成就させようとする物語。
 本編でのカーロフのミイラ状態のシーンは数分に留まり、ミイラの容姿は人と対話出来る人間状態にまで回復する。ミイラ状態のシーンはイムホテップが復活するまでの経過点でしかなかったが、ジャック・P・ピアースの手による「ラムセス三世」のミイラをモチーフとしたメイクは「見事」の一語に尽き、そのインパクトは絶大であった。
 3610280272_89b6f43661_o.jpgのサムネイル画像そして本作は1940年に『The Mummy's Hand』(1940)としてセミ・リメイクされる。この作品ではミイラの成り立ちは『ミイラ再生』の設定を踏襲したものだが、神官の名前は「カリス」、姫の名前は「アナンカ」に変更され、現世に移ってからの物語の展開は「アナンカ姫の墓守がカリスのミイラを使って発掘隊の関係者に復讐していく」というものになった。ここでようやく「モンスター然としたミイラ男」が登場し、そのスタイルが確立するのである。この時ミイラ男に扮したのはB級西部劇のスター、トム・タイラーだ。このセミ・リメイクを基点としてミイラ男映画は『The Mummy's Tomb』(1942)、『The Mummy's Gorst』(1944)、『The Mummy's Curse』(1944)とシリーズ化されていった。シリーズの2作目以降、ミイラ男に扮したのはロン・チャニー.Jr。また、ユニバーサルでは、バッド・アボット&ルウ・コステロの凸凹コンビのシリーズの一本として『Abbott and Costello Meets the Mummy』(1955)がある。

【ハマー・ホラーの時代】

 10813865406_71a509479d_z.jpg1940年代後半になると、古典的な怪物映画の人気も衰退していったが、その人気が息を吹き返すにはさほど時間がかからなかった。英国ハマー・フィルムによる怪奇映画の登場である。鮮烈な描写で『フランケンシュタインの逆襲』(1957)、『吸血鬼ドラキュラ』(1958)を世に送り出し、世界を驚かせたハマーは、その勢いに乗って『ミイラの幽霊』(1959)を制作。これはユニバーサルの『Mummy's Hand』(1940)の完全リメイク作品で「ミイラ男映画」初のカラー作品。黄金色豊かな絢爛豪華さでミイラ男映画を復活させた。この作品は本国イギリスでは『吸血鬼ドラキュラ』を超える興行成績を記録し、以後ハマーでは『怪奇ミイラ男』(1964)、『ミイラ怪人の呪い』(1967)、『王女テラの棺』(1971)の3本のミイラ映画が制作された。最終作の『王女テラの棺』(1971)はブラム・ストーカーの小説『The Jewel of Seven Stars』の映画化で、登場するミイラは女性であった。

※ハマー・フィルム研究会におけるテキストの内容はここまで。

 

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