1960⇒1969

1966年の最近のブログ記事

吸血ゾンビ

1960年代前半、ユニバーサル・ホラーのリメイクを中心に映画作りを続けていたハマー・フィルムは、マンネリズムの壁に突き当たってしまった。実際、この時期のハマー・ホラーは、クリストファー・リーのドラキュラ映画の不在もあって迷走期に入っていた。そこで、ユニバーサル・ホラーのモンスターとは違う切り口としてハマーが目を付けたのがヴィクター・ハルペリン監督による『恐怖城』(1932)、すなわちゾンビ映画だったのである。呪術師がブードゥの魔力を以て「生ける屍」を悪事に利用するというプロットを借りて作られた本作は、腐りかけているゾンビのメイクや、ゾンビが土中から這い出す演出などが斬新で、後世のゾンビ映画に凄まじい影響を与えることになった。まさに古典ゾンビからモダン・ゾンビへのバトンとなった作品と言える。世界初のカラー・ゾンビ映画であり、それまでのゾンビ映画の集大成ともいえる作品なのだ。

日本では戦前に公開されたゾンビ映画は『恐怖城』のみで、『吸血ゾンビ』は本邦公開二本目のゾンビ映画となる。

凶人ドラキュラ

 ハマー・フィルムのドラキュラ・シリーズ3作目にして、初作『吸血鬼ドラキュラ』の正式な続編。
 ストーカーの原作の権利を得て、初めて『魔人ドラキュラ』(1931)が公開されて以来、ドラキュラ映画は全てユニバーサル製作、もしくは配給で公開されたが、本作は初めてユニバーサル以外の資本によって製作されたドラキュラ映画である。これは、それまでユニバーサルが原作の映画化、及び舞台劇の脚本の権利を独占していたためである。しかし、1962年に原作者没後50年に至り、原作がパブリック・ドメインとなったため、キャラクターの使用については権利の束縛が消失したのである。
 クリストファー・リーのドラキュラ役は実に8年ぶりのこと。ドラキュラの登場シーンは諸々、初作の焼き直しとなった。本作にはドラキュラの台詞が無く、そのために徹底して怪物としての存在になっている。リーの美声が聴くことが出来ないのは寂しい限りだが、ドラキュラの登場シーンは全て見せ場となっている。台詞に関しては「意味が無いので削除させた」と主張するリーに対して、脚本家のジミー・サングスターは「最初から無かった」と、りーの主張を否定している。サングスターはリーの主張に関して「何かと勘違いしているのだろう」と述べている。

 物語は至極シンプルで、いわゆる「子供に聞かせるおとぎ話」の体裁を整えており、吸血鬼ドラキュラという怪物を紹介するには理想的な作品だと言える。おそらく、今日世間一般に知られているドラキュラの印象は、本作が最も強い影響を及ぼしていることだろう。

 撮影を終えて編集作業に入り、映画を完成させたところ、予定よりも時間が短くなってしまったために、急遽前作のクライマックスをプロローグとして差し込むことになったが、これによって本作に出演していないピーター・カッシングのギャランティが発生してしまった。これに関しては、制作側がカッシングの家の屋根の修繕を請け負う事で相殺された。

 ドラキュラのスタントを務めたのは、ハマー・ホラーでは常連のエディ・パウエル。ラストの水没シーンでは、堀に沈んだ後に水中に設置してあったはずの酸素ボンベが見つからず、あわや溺死するところだったという。

 バーバラ・シェリーは、城の地下でアランの死体を発見して叫び声を挙げるところで、元々声質が低く、思うように悲鳴が出せなかったため、本編ではスーザン・ファーマーが悲鳴のアテレコをしている。

 配給元の20世紀FOXはエリザベス・テイラー主演の超大作『クレオパトラ』(1963)の興行的失敗(映画はヒットしたが、巨額の製作費を回収するまでに至らなかった)によって屋台骨が傾げ、経営危機に陥ったが、『サウンド・オブ・ミュージック』(1965)のヒット等で徐々に再建の道を見出した。この時、『凶人ドラキュラ』をはじめとするハマーの20世紀FOXシリーズもその一助として大いに貢献したという。

怪奇!呪いの生体実験

 日本未公開作品だが、71年にテレビ初放映された。以来、何度か再放送を重ね、それを子供の頃に観てトラウマになってしまった人が非常に多いという曰くつきの作品。
 ナチの復興を目論む題材としては『ブラジルから来た少年』(1976)が頭に浮かぶが、それに先駆けて10年も前に作られた。特撮は今日の目で見ればチープと言わざるを得ないが、それを補って余りある如何わしく陰惨な雰囲気は特筆すべきところ。冷凍庫にぶら下がるナチ党員、筋肉の電流実験に使われる腕、といったビジュアルイメージのインパクトは強い。何よりも、ただ邸に来ただけの罪の無い女性を殺害し、その生首を痛ましい姿で生かしておくという、幾分行き過ぎた設定は、いかなホラー映画に慣れた者でも背筋寒からしめるものがある。あまりにもひどい話だ。
 しかし、そういったビジュアル面よりも役者の演技面が実に不気味。上手い下手は別として、登場人物がことごとく常軌を逸しており、特に本作のヒーロー的立場にあるロバーツ博士が生首を見てニコニコと喜び、二つ返事で実験に協力してしまうあたりは観客を人間不信に陥れてしまうほどの衝撃である。はっきりいってロバーツの人格演出が生煮えの状態で、少々破綻気味な感がある。しかし、それが功を奏してか、他の一本筋の通ったマッド連中とは違って、群を抜いて狂気の人だ。ここのところの絶望感といったらない。

 ノルベルク博士に扮したダナ・アンドリュースは、『我等の生涯の最良の年』(1946)や、『バルジ大作戦』(1965)、『エアポート'75』(1974)等で知られる、ハリウッド・スターの一人である。

 ノルベルクの助手カールに扮するアラン・ティルバーンは、『白夜の陰獣』(1966)、『スーパーマン』(1979)、『ファイヤーフォックス』(1982)、『リトルショップ・オブ・ホラーズ』(1986)にチョイ役で顔を見せている。


 凶暴になってしまったジーンの父に扮しているのは、無名時代のエ
ドワード・フォックスである。

 監督のハーバード・J・レダーは、本作の翌年に『魔像ゴーレム』(1967)の監督・脚本を務めている。メイク・アップのエリック・カーターもまた、同作でメイクを担当。

 音楽がドン・バンクス、音楽監督はフィリップ・マーテルだ。この二人は、ハマー・ホラーでお馴染み。ドン・バンクスは『フランケンシュタインの怒り』(1964)、『蛇女の脅怖』(1966)、『ミイラ怪人の呪い』(1967)の作曲家。
 
 この作品は出来の良し悪し云々よりも、色んな意味でボーダーラインを越えてしまっている。同時期のハマーやアミカスのような格調高さは無いが、これはこれでちょっと外せない作品といえる。

華氏451

fahrenheit451_1.jpgレイ・ブラッドベリの有名小説をヌーベル・ヴァーグ(新たな波)の監督トリュフォーが映画化した。

実に若々しくて、若き製作者の「俺達の主張はこれなのだ。」という熱がある。

活字が禁止されている世界の映画なので、タイトルクレジットもオープニングクレジットも無く、キャストとスタッフが、ナレーションで語られる。これが実に珍妙な印象を受けるのだが、反面、「ここから先は文字が出てこない」という暗示めいたものも感じて、観ているほうはちょっと空恐ろしい。

文字を否定した世界の話だから、全編目に入る光景には文字が無い。番地も、看板も、表札も、普通にあるものがすべて無い。観ている方としては、これが結構苦痛だったりする。普通にある文字が無いというだけで、これだけ違和感を感じるのか。

当然この体制に反発する一派がいる。彼らは消防士(警察)に追われる存在。そして彼らは「本の人々」と呼ばれる観客の救世主だ。彼らは本を丸暗記して、人々に語って伝えるという使命を担っている。一人一人の名前がインディアンネームならぬ「本の題名」だ。実に高潔な人々でユーモアたっぷりな人々。

確かにいい映画ではあるが、個人的には生理的に受け付けない。文字の無い世界、文字がこれほど生活のうえで重要で落ち着くものかと再認識させられた。観てて吐き気がする感は否めない。あくまで個人的なものだが。

ちなみに、華氏451度は「本が自然発火する温度」のことだそうだ。

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