1960⇒1969

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怪奇!呪いの生体実験

 日本未公開作品だが、71年にテレビ初放映された。以来、何度か再放送を重ね、それを子供の頃に観てトラウマになってしまった人が非常に多いという曰くつきの作品。
 ナチの復興を目論む題材としては『ブラジルから来た少年』(1976)が頭に浮かぶが、それに先駆けて10年も前に作られた。特撮は今日の目で見ればチープと言わざるを得ないが、それを補って余りある如何わしく陰惨な雰囲気は特筆すべきところ。冷凍庫にぶら下がるナチ党員、筋肉の電流実験に使われる腕、といったビジュアルイメージのインパクトは強い。何よりも、ただ邸に来ただけの罪の無い女性を殺害し、その生首を痛ましい姿で生かしておくという、幾分行き過ぎた設定は、いかなホラー映画に慣れた者でも背筋寒からしめるものがある。あまりにもひどい話だ。
 しかし、そういったビジュアル面よりも役者の演技面が実に不気味。上手い下手は別として、登場人物がことごとく常軌を逸しており、特に本作のヒーロー的立場にあるロバーツ博士が生首を見てニコニコと喜び、二つ返事で実験に協力してしまうあたりは観客を人間不信に陥れてしまうほどの衝撃である。はっきりいってロバーツの人格演出が生煮えの状態で、少々破綻気味な感がある。しかし、それが功を奏してか、他の一本筋の通ったマッド連中とは違って、群を抜いて狂気の人だ。ここのところの絶望感といったらない。

 ノルベルク博士に扮したダナ・アンドリュースは、『我等の生涯の最良の年』(1946)や、『バルジ大作戦』(1965)、『エアポート'75』(1974)等で知られる、ハリウッド・スターの一人である。

 ノルベルクの助手カールに扮するアラン・ティルバーンは、『白夜の陰獣』(1966)、『スーパーマン』(1979)、『ファイヤーフォックス』(1982)、『リトルショップ・オブ・ホラーズ』(1986)にチョイ役で顔を見せている。


 凶暴になってしまったジーンの父に扮しているのは、無名時代のエ
ドワード・フォックスである。

 監督のハーバード・J・レダーは、本作の翌年に『魔像ゴーレム』(1967)の監督・脚本を務めている。メイク・アップのエリック・カーターもまた、同作でメイクを担当。

 音楽がドン・バンクス、音楽監督はフィリップ・マーテルだ。この二人は、ハマー・ホラーでお馴染み。ドン・バンクスは『フランケンシュタインの怒り』(1964)、『蛇女の脅怖』(1966)、『ミイラ怪人の呪い』(1967)の作曲家。
 
 この作品は出来の良し悪し云々よりも、色んな意味でボーダーラインを越えてしまっている。同時期のハマーやアミカスのような格調高さは無いが、これはこれでちょっと外せない作品といえる。

 「スペース・ウエスタン」と銘打った、ハマー・フィルム製作のSF映画である。日本の映画雑誌には、「宇宙船02」のタイトルで新作紹介されたが、劇場公開には至っていないようだ。

 主人公はアメリカ軍人のケンプとロシア人のコミンスキーのコンビである。冷戦真っ只中に作られた作品だ。オープニングクレジットのアニメーションで、この二人がコンビになるいきさつが描かれる。宇宙開発競争の中、アメリカとソ連の宇宙船が月面に到着、各々国旗を立てるが、双方で小競り合いが始まり、そうこうしているうちに世界各国の宇宙船がやってきて、あっという間に月は人類の新天地となる。時期に一攫千金を目論む輩も出てきて、暴力と略奪が起き、成功者も出てきて、二人は過去の存在、すなわち用済みとなって、イギリスの清掃車に回収され、ゴミ箱行き。こりゃたまらん、ということで、二人は「宇宙船02号」で月を逃げ出すのであった。

言ってみれば「スターウォーズ」のハン・ソロとチューバッカを主人公にしたような物語。

69年に「恐竜時代」と共にリリースされた。本作の特撮は「恐竜時代」と同じくレス・ボウイ。月面のミニチュアワークは東宝特撮を彷彿とさせるもので、「宇宙大戦争」に出てくるような月面探検車や、採掘用バリカンが装備されたブルドーザーなど、地味な新兵器がそこそこ登場してほほえましい。

人類SOS!

ジョン・ウィンダムの小説「トリフィドの日」の映画化作品。

撮影終了当初、映画全体の時間がとても短かったために、後日、灯台のグッドウィン夫妻のシークエンスが追加撮影された。このパートの撮影を担当したのは、フレディ・フランシスであった。

少女スーザンに扮するのは、「吸血鬼ドラキュラ(1958)」でタニヤを演じた、ジャニナ・フェイである。

華氏451

fahrenheit451_1.jpgレイ・ブラッドベリの有名小説をヌーベル・ヴァーグ(新たな波)の監督トリュフォーが映画化した。

実に若々しくて、若き製作者の「俺達の主張はこれなのだ。」という熱がある。

活字が禁止されている世界の映画なので、タイトルクレジットもオープニングクレジットも無く、キャストとスタッフが、ナレーションで語られる。これが実に珍妙な印象を受けるのだが、反面、「ここから先は文字が出てこない」という暗示めいたものも感じて、観ているほうはちょっと空恐ろしい。

文字を否定した世界の話だから、全編目に入る光景には文字が無い。番地も、看板も、表札も、普通にあるものがすべて無い。観ている方としては、これが結構苦痛だったりする。普通にある文字が無いというだけで、これだけ違和感を感じるのか。

当然この体制に反発する一派がいる。彼らは消防士(警察)に追われる存在。そして彼らは「本の人々」と呼ばれる観客の救世主だ。彼らは本を丸暗記して、人々に語って伝えるという使命を担っている。一人一人の名前がインディアンネームならぬ「本の題名」だ。実に高潔な人々でユーモアたっぷりな人々。

確かにいい映画ではあるが、個人的には生理的に受け付けない。文字の無い世界、文字がこれほど生活のうえで重要で落ち着くものかと再認識させられた。観てて吐き気がする感は否めない。あくまで個人的なものだが。

ちなみに、華氏451度は「本が自然発火する温度」のことだそうだ。

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