1970⇒1979

2010年7月アーカイブ

ウエストワールド

westworld01.jpg この物語は「ジュラシックパーク」と同じく、「テーマパークの事故」がテーマとなっている。共にクライトン原作という点では、この共通項はとても興味深い。
「ウエストワールド」と「ジュラシックパーク」の決定的な違いは、前者がテーマパークのオープン中、後者はオープン前の出来事である、ということだ。

 「ウエストワールド」は、マイケル・クライトン本人の演出によるものだが、この時代のクライトンは、純粋な「作家」であり、本作もまた。小説風な作りである。
 物語として考えた時に、「客を巻き込んだ、開店中の出来事」とした方が当然話は面白い。
 
 対して「ジュラシックパーク」はその面白さを排除した「開店前」の設定。当然のことながら、小説として書かれるならば、ジュラシックパークもまた、パーク開店中の出来事になるのが自然の流れである。しかし、それが無かったのは、「ジュラシックパーク」の小説自体が「映画化前提」で書かれたからではないだろうか?映画化の際、客をパニックに陥れることは製作費の増幅に繋がる。そこを、映画化しやすいようにクライトンは「ジュラシックパーク」を書いたのではないだろうか?

 いかに科学が発達した世界の物語とはいえ、その設定に少々無理があるところは否めないが、作家性が前面に出ている作りとするならば、多少の無理はいたしかたないところと思う。
 
 デロスのロボットの動きは全てコントロールセンターの人的操作によって成り立っており、基本的に客のプライバシーは無いことになる。そこに来て、このデロスの売りが「置き屋」まがいの風俗的性質であったりする。・・・個人的にいろいろ考えてしまう。
 デロスは、「大人のディズニーランド」であり、大人の夢をかなえるテーマパークなのだ。
 
 「荒野の七人」のクリスの再来である、ユル・ブリンナーのガンマン・ロボの存在感は圧倒的。またこのガンマンは、「ターミネーター」のプロトタイプともいえる。

 主人公のリチャード・ベンジャミンは、日本では「ドラキュラ都へ行く(1979)」での執拗なヘルシング博士の孫役で知られる。80年代に入ってからは、「マネー・ピット(1986)」「花嫁はエイリアン(1988)」をはじめとするコメディ映画を中心に監督としても頭角を現す。

 修理人役として登場するスティーブ・フランケンは、テレビドラマ「奥さまは魔女」ではお馴染みの顔。目をキョロっとさせたボケ役で笑いを誘うが、本作では、シリアスな役どころ。砂漠でロボットの襲撃に怯えるも、あえなく銃弾に倒れてしまう。

悪魔のはらわた

flesh_for_frankenstein_02.jpg本作品はもともと3D映画として公開された。そのため、随所に立体的な演出が施されている。

フランケンシュタイン男爵は内臓嗜好、屍姦嗜好、実姉を妻とし、子供も二人いる、という異常性愛者という設定。助手のオットーは、粗雑な役立たずの変態。姉のカトリンはセックスマニア。子供は残酷で鉄面皮。主人公のニコラスは性欲おびただしく、カトリンと関係を持っている、と、まともな人間が(主要人物では)全く出てこない作品である。

サシャは「ホモ」という定説であるが、本編ではその設定は登場せず、「僧侶志望で女性に興味が無い男」という設定である。

翌年製作された「処女の生血(1974)」と出演者、セットを共有しているという。